1月


27日
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)

オーストリア、作曲家

宮廷音楽家である父、レオポルド・モーツァルトと母アンナ・マリアの7番目の子としてザルツブルグで生まれています。(子供のうち5歳上の姉ナンネル以外は、皆早く亡くなっています。)父から厳しい音楽教育を受け(晩年に至るまで父の存在が大きく影響を与えています。)又、それに応え、幼い頃から大変な神童ぶりを発揮していました。5歳でメヌエット、8歳の時には交響曲を作曲、演奏の方でも早くから人前に立ち、6歳の頃からピアニストとして、父や姉と共に各地を巡演し絶賛を浴びています。ヨーロッパ各地で演奏旅行をしているうちに才能を高めていきましたが、とくにクリスティァン・バッハ(大バッハの末子)やハイドン等多くの作曲家の影響を受けています。

1773年からザルツブルグに定住し、同地の大司教つき音楽職をつとめていましたが、新大司教ヒエロニムスとの関係が悪化し母とマンハイム、パリ旅行を行い、他の地に就職口を求めたが失敗。しかし得るところは大きかった。又、後に妻となったコンスタンツェ・ウェーバーの姉アロイージアへの恋やパリでの母の死など人生上の苦い経験も重ねています。

79年失意のうちに帰郷し、しばらく作曲活動を続けますが1781年再び大司教と衝突、後援者のないままウィーンに出て独立、1782年ウィーンの下宿屋ウェーバー家の娘コンスタンツェと結婚、愛妻家で彼にとって最も幸せな時期でした。交響曲「ハフナー」「リンツ」ピアノ協奏曲20番、21番等の名曲も生まれています。その後名作が次々とすばらしいスピードで生み出されますが、次第に貧窮の度を増し、借金を繰り返し、又、妻も病気がちで転地療養に出ます。(妻は家計の窮状には無頓着でした、モーツァルトが実情を知らせていなかったらしいです。)彼もまた病気がちとなり、1791年「レクイエム」にとりかかり「魔笛」の初演を行った後、35歳の短い生涯をとじました。
モーツァルトの快活で楽天的な生活は、母親ゆずりであるといわれています
ウィーンのシェーンブルーン宮殿でも皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアを前にクラヴィーアを演奏しましたが、天真爛漫な彼は、女帝のひざに飛び乗ったり、宮殿の床で滑って転んだ時助け起こしてくれた、一つ年上の皇女マリー・アントワネットに、その場で、将来の結婚の約束をしたという、有名なエピソードがあります。
交響曲約50曲、歌劇、宗教音楽、管弦楽曲等々、900曲をこえる数多くの作品があり、ハイドンと共に、発展途上にあった古典派の音楽様式を完成した功績は大きい。その葬儀は第3等で、墓地まで誰一人として見送る者もなく、遺骸は共同の墓穴に埋葬され、十字架の一本も立てられなかった。皮肉にも彼の名声は死後急速に高まり、早くも9日後プラハで行われた追悼ミサには有名な音楽家たちをはじめ、何千人という人々が集まったといわれています。
モーツァルトは才能の劣った人たちに対しては、同情するのではなく、はっきりと見下して「死ぬほど笑う」のであった。しかし、彼は1781年には生まれて初めて味わうことになる体験をしています。この年、彼はクレメンティに出会い、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の企画によってクレメンティと試合をすることになったのですが、モーツァルトは負かされそうになったのである。モーツァルトがクレメンティに触れたときの様子は手紙に書かれていますが、そこには怒りが満ちており、そのことがクレメンティのピアニストとしての力量を証明しているといわれています。
ある人が、モーツァルトに「どうしてそんな素晴らしい曲ばかりつくれるんですか?」と尋ねた時、モーツァルトは「いやー、こういうふうにしか作れないんです。」 と答えたそうです。

1月


27日
ルイス・キャロル (本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジスン)

(1832〜1898)

童話作家、数学者

イギリスのチェシャー州のダーズベリで牧師の長男として生まれました。彼には、なんと11人(姉2人、妹5人、弟3人)もの兄弟姉妹がいました。彼らは、皆多少の言語障害があって、彼自身も吃音のハンディキャップに悩んでいたのですが。のどかな田園の牧師館で幸せな日々を過ごしていました。

18歳のときに、オックスフォード大学クライスト・チャーチへ入学。特に数学で頭角をあらわし、そして、23歳のときに、終生学校に留まっていられる特別研究生の地位を得、卒業後はオックスフォード大学の数学講師となりました。

28歳のとき「平面解析幾何学大要」を出版し、翌年には、英国国教会執事に任命されましたが、正式の牧師にはなりませんでした。

そして1862年、彼が30歳になったとき、 リデル家の姉妹のロリーナとアリスとイーディス、友人ロビンスン・ダックワースとの5人ボート遊びのなか、彼はボートを漕ぎながら「地下の国のアリス」というお話を即興で作り上げました。

帰宅後、今日のお話しを本に書いて欲しいとアリスに頼まれて、彼は、話を思い出しながら物語を書き始めました、そして、数か月後、直筆で書いた「地下の国のアリス」に自筆の絵を添えて、手作りの本に仕上げてアリスに捧げたのです。 

その後周囲からの薦めもあって、話しを書き足して「不思議の国のアリス」を完成させ、ジョン・テニエルの挿絵でマクミラン社から自費出版することになりました。ヴィクトリア女王も愛読したと言われるほど評判となりました。

彼は、その後も「鏡の国のアリス」のほか、ナンセンス文学の「スナーク狩り」や、長編の「シルヴィーとブルーノ」、それに多くの詩を発表しました。もちろん、チャールズ・ドジスンとしても、数学や論理学の著作を数多く残しています。 しかし、アリス物語の作者であることが知れわたっても、人前では一生その作者が自分であることは認めようとしなかったそうです。

その後も、彼は子供達と楽しい時を過ごしながら、生活していましたが、1898年1月14日、気管支炎が悪化してサリー州ギルフォードで亡くなりました。65歳でした。
ルイス・キャロル
彼は、大学時代、雑誌などに匿名や筆名で寄稿していました。その時に、本名のチャールズ・ラトウィッジ(Charles Lutwidge)をラテン語に直して、「Carolus Ludovdcus」とし、それをもう一度英語にして、ペンネーム「ルイス・キャロル(Lewis Carroll)」としたということです。
彼の「不思議の国のアリス」は大評判となり、ヴィクトリア女王も彼の物語の大ファンでした。そこで、ビクトリア女王は彼と会ったとき、ぜひ、他の本も贈って欲しいと頼んだところ、彼は快く承諾してくれました。後日、期待に胸膨らむ女王の下に届けられたのは、全て数学の専門書だったということです。
彼は、はっきりいって、ロリータコンプレックス(ロリコン)でした。彼は、吃音のハンディキャップのために、人との付き合いが苦手でしたが、子供たちの前では、急におしゃべりになって、けっしてどもることはなかったといわれています。彼は、30歳の時に13歳になった学寮長の娘のアリスに結婚を申し込んでいますが、アリスの両親によって拒否されています。ちなみに、すっかり年頃になったアリスには、興味を無くしていたと、いわれています。もちろん、成長しない少女などいるわけも無く、彼は一生独身だったそうです。
彼の趣味の一つに、当時としてはまだ珍しかった写真がありました。彼は1855年23歳の時に初めてカメラを購入し、その後は、どこに行くにも写真機材を担いで行くほど熱中したそうです。その腕前は素人の域を越えていて、もし彼がアリス物語を発表しなくても、写真家として名を残したといわれるほどだったそうです。

ただ、彼がモデルに選んだのは少女と、著名人たち。彼は、少女や有名人と、近づくために写真を口実に使っていたようです。


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