1月


25日
湯川秀樹(1907〜1981)理論物理学者(☆1月23日説もあります)

地理学者、小川琢治の三男として東京、六本木に生まれました。翌年、父の転勤のため京都へ移住。父とはそりが合わず、祖父、小川駒橘の影響を受けて育ちました。1923年京都第三高校入学、ここで、朝永振一郎と出会っています。

1926年京都帝国大学理学部に進学。卒業後、同大学の研究室に入ります。1931年(昭和6年)大阪の医師、湯川玄洋の婿養子となり、その娘、スミと結婚、(結婚式の翌日、こんな会話がありました。スミが夫に「ノーベル賞というのは、日本人はもらえないものですか」と尋ねると、秀樹は「どんな国の人でも大きな発見をすればもらえる、君が内助をしてくれたら、世界中の物理学者が解決できないことを解く自信がある」と答えました。)後、夫人は骨身を削って、夫に協力してゆきます。

1933年大阪帝国大学理学部講師、教授を経て、京都大学教授となる。1934年11月17日、東京帝国大学での研究講演で初めて、陽子と中性子との間を往復する新粒子の存在を予言した「中間子論」を発表(翌年2月、専門誌に発表)。その独創的な内容ゆえに、研究者達の間では全く反応はありませんでしたが、1937年、米国の物理学者カール・D・アンダーソンが、浸透する宇宙線分子を捕らえる装置の写真撮影中に中間子の存在を発見。一躍世界の注目を集めました。

1939年、京都帝国大学理学部の教授となります(のちに同大学にて基礎物理学研究所所長に昇進)。1943年文化勲章受章。1948年、米国の物理学者・オッペンハイマーよりプリンストン高等研究所に招かれ、アインシュタインらと対面を交わしています。

1949年11月3日、先の「中間子論」の功績で日本人初のノーベル物理学賞を受賞。

以後、海外の学者達との親交を深める一方で、ラッセル・アインシュタイン宣言やパグウォッシュ宣言などの平和運動にも夫人と共に貢献しました。昭和56(1981)年9月8日逝去。

著書「目に見えないもの」「素粒子論序説」「現代科学と人間」
物理学の研究には、当然、外国の書籍もたくさん買って読まねばならない。夫人が掃除をしていたら机の上に本屋の請求書が載っていたので父親からお金を貰って乗せておく。喜んでお金を出してくれる父親に感謝すると同時に、難しい原語の本をどんどん読んで研究を重ねる夫を心から尊敬したという。 また、夜中にもパッと電灯をつけてメモを始めるから「専念させるのがつとめ」と、妻は泣きだした二人の子供を抱いて部屋を出て灯が消えるまで待っていたといいます。
苦心の論文が完成したとき、スミ夫人も体重が約三十キロにやせ、肺浸潤になっていたと言う。 「秀樹さんがせっかく考えついたことを、早く世界中の人が読むものに発表して下さい」と夫人が頼んでやっと「素粒子の相互作用について」と題する英語の論文が日本数学物理学会に送られた。この論文が、二年半後にアメリカの実験物理学者に証明され、後にノーベル賞を受ける「中間子の発見」である。
スミ夫人の著書「苦楽の園」の前書きには「この世の中は人間にとって苦楽の園であるからこそ、みんなの力で何とか楽園にしたい」とある。
朝永振一郎(1906〜1979)理論物理学者
 「超多時間理論」を発表。1965年ノーベル物理学賞受賞

アンダーソン(1905〜1991)アメリカ 物理学者。
 1932年「ウイルソンの霧箱」で、陽電子を発見。

オッペンハイマー(1904〜1967)アメリカ 理論物理学者
 原子核、宇宙線、素粒子論の世界的指導者。

アインシュタイン(1879〜1955)アメリカ ユダヤ系ドイツ人
 理論物理学者 相対性理論を立てる。1921年ノーベル物理学賞受賞

1月


25日
北原白秋(本名 隆吉)

1885〜1942

明治・大正・昭和前期の詩人

福岡県山門郡沖端村(柳川市沖端)の屋号を「油屋」酒造家の長男として生まれました。彼は、この地で、日本の南国的風土と異国情緒を多分に吸収しながら少年時代を柳川で過ごしたのでした。

伝習館中学時代から歌を作り始め、中学中退後、明治37年に上京して、早稲田大学英文科にはいりますが、すぐに中退してしまいます。

その後「明星」に詩・短歌を発表して才能を示し、明治40年には吉井勇や石川啄木らとパンの会を作りました。その後「スバル」を創刊し、耽美派新浪漫派として活躍しています。

そして、その年、南国の異国情緒を歌った処女詩集「邪宗門」を出版、続いて、少年の日の悲しみと美しさをうたった詩集「思い出」を出版し詩壇にその天才的才能を認められ、それからは、一作ごとにその名声を高めていきました。さらに、大正2年には、処女歌集「桐の花」を出版し、歌人としても名を成したのです。

また、彼は日本の童謡運動のさきがけとして、鈴木三重吉の創刊した童話雑誌「赤い鳥」に参加し、童謡を担当。わらべ唄の採取や「まざー・ぐーす」の翻訳もおこない、「トンボの眼玉」や、「赤い鳥小鳥」「待ちぼうけ」、「この道」、「ペチカ」等多くの童謡を作詞しました。

昭和12年、彼は眼底出血で視力をほとんど失ってしまいましたが、それでも活動を続け、作品を発表し続け、昭和17年11月2日、喘息で亡くなりました。57歳でした。
彼は幼いころ蛍の時季がくると「あの目の光るのは、星か、蛍か、鵜の鳥か。蛍ならお手にとろ、お星さまならおがみましょう」という子守唄を聞かされながら、その詩情をはぐくんでいったといわれています。


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