1月


23日
エドゥアール・マネ(1832〜1883)フランス、画家、印象派の父

(1832〜1883)

フランス、画家、印象派の父(男性)

法務省の高官オーギュストと外交官の娘ウジェニーの息子として、パリの裕福なブルジョア家庭に生まれました。

父は大変まじめで厳格なエリートで、息子にも同じ道を歩ませようとしていました。彼もそれに応え、12歳でコレージュロランに入学する等、とても優秀でしたが、次第に反発、生涯の友人となるアントナン・プルーストや、母方の叔父で美術愛好家のフルニエ大佐の影響で、絵画に興味を持つようになり、デッサンを習ったり、彼らと共にしばしば美術館へも通うようになります。

16歳の時、画家になることを父に申し出ましたが、父は激怒。妥協策として海軍兵学校を受験しますが不合格、再受験の資格を得るため船員になりましたが、再受験も失敗します(船の中でも写生ばかりしていました)。

さすがに父も彼の意思を認めますが、エリートの道を進むよう切望します。しかし、彼はアカデミー派の画家、トーマ・クチュールの画塾へと進みました、しかし不満をもち離れ、スペイン絵画を初めとするルーブル美術館やヨーロッパ各地の美術館を訪れ、過去の巨匠の研究をし、独自の様式を形成していきました。

1858年サロンに出品した「アブサンを飲む人」又、1863年「草の上の食事」は共に落選しますが、いわゆる落選画展覧会に並べられ注目を浴び、特に批評家となったゾラやボードレールらの指示を受けますが、1865年にサロンに出品した「オランピア」で生身の女性の裸体を描いたことに対し激しい批難を浴びます。

しかしフランス風のしゃれた筆遣いで、写実と外光を見事にとらえた作品はピサロやモネら若い画家たちをひきつけ後の印象派誕生など絵画の革新に指導的役割を果たすことになります。

ただし、革命的画風とは正反対に保守的な性格であったため、印象主義者たちの急進的な考えについていけず印象派展に参加することはありませんでした。

版画やパステル画にも優れた作品があり。又、「笛を吹く少年」では、スペイン絵画とともに、日本の浮世絵(ジャポニズム)の影響を受けているといわれています。
落選展
1863年、サロンの入選者が減り落選作品が2800点にものぼるという「絵画の大虐殺」が行われ、サロンに対する画家の不満が一気に高まる。そこで政府はその救済策として史上有名な「落選展」なるものを開く。これが、大衆の興味をそそり、開始数時間で7000人の人が押しかけた。という記録が残り、その注目の的はマネの「草上の昼食」であったといわれる。一般大衆の非難と嘲笑の的としてではあるが。(絵画上の裸婦は宗教画の中で犯すことのできない神聖なものだった)
オランピア
ゾラはマネの「オランピア」を純粋芸術の名のもとに弁護した。1867年、ゾラは「君にとって絵は分析のための口実なのだ、とみんなに言ってやれ、裸の女が必要だったから、オランピアを思い浮かべた。純粋で光り輝く斑点が欲しかったから花束を描いた、何か黒いものが欲しかったから黒人の女と黒猫をひとすみに描いた、これらが何を意味するか、君にも僕にもわからない。しかし僕は、君が画家の仕事を、大画家の仕事をしたことを知っている。君自身の特別の言葉で、光と影の真実を、物と生きているもののリアリティーを描いたことを知っている。」
1883年4月30日。マネは51歳で亡くなります。葬儀の様子を伝える当時の新聞は、教会から墓地に向かうマネの棺のロープをプルースト、ゾラ、デュレ、モネらが持ったと伝えています。マネが亡くなったとき、皮肉屋のドガはこう言いました。「彼がこんなに偉大であることを、我々はつい今まで知らないでいた」と。

1月


23日
スタンダール (Stendhal)
          本名 マリー・アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)

「書いた、愛した、生きた」(墓碑銘)

(1783〜1842)

外交官、作家

フランスのグルノーブルで生まれました。グルノーブル中央学校を卒業後、理工科大学受験のため16歳でパリに上京しました。しかし、そこでナポレオンの崇拝者となって、受験をやめて陸軍省に入って軍人となり、ナポレオンの第2回イタリア遠征に参加します。

かれは、この遠征によってイタリアの魅力に取り付かれ、再びパリで劇作家を志し文学修業に励み、社交界に出入りしながら演劇論・音楽論を著すようになります。彼は、また官僚としても活躍していました。しかし、ナポレオンの失脚と共に没落し、イタリアのミラノに住んで、創作を続けていました。

1821年パリに戻り、有名な小説「赤と黒」などを発表しています。その後1831年の七月革命によって、イタリアのチビタベッキアの領事に任命され、そこで作品を書いていました、休暇中のわずか7週間で「パルムの僧院」を書き上げた話は有名です。

彼の作品は、性格や心理描写にすぐれ、現在では、フランス写実主義文学の先駆的作家として賞賛され、作品は近代小説の傑作とされていますが、生前には、彼の作品は誰からも相手にされず、唯一バルザックだけが、彼を賞賛していたということです。

当時の雑誌の中には「突飛な本ばかり書くが、スタンダール氏は気が狂っているわけではない。」と書いた雑誌もあるそうです。
赤と黒
物語は貧しい生まれの美貌と才能に恵まれた青年が立身出世を夢みて僧侶となり、町長の夫人と男爵の娘を誘惑して成り上がろうとして三角関係のもつれから破局を迎える様子を描いています。

「赤と黒」の赤は軍服、黒は僧服を意味しています。当時のフランスは階級社会であり、貧しい生まれの若者が成り上がろうとすれば軍人になるか僧侶になるかしかありませんでした。この小説は、フランス復古王政の時代を鋭く批判した政治小説でもあります。


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