1月


19日
ジェイムズ・ワット(1736〜1819)

イギリス 蒸気機関の改良、機械技術者 (男性)

スコットランドのグリーノックという港町に船大工の子として生まれました
が、幼い頃は体が弱く正規の学校教育は受けられませんでした。また、10代のときに母を失っています。

父親は海運関係の仕事も手広く営んでいましたが、彼が18歳の頃事業が不振におちいり、彼は、英国に出てロンドンに行き、1年間年期奉公を勤めてつらい修業をしたが、この間に機械の使用法を習得し、機械工としての技術を身につけました。


その後、スコットランドに戻り、教育用器具製造者の道を選びました。しかし、その道も当初は険しく、修行をつみ、やっとのことで、ありついた職場が市の権限外であった、グラスゴー大学でした。ここで信望を得、ようやく大学内で店を開くことができました。彼は、そのかたわらで数学や物理学を勉強していきました。

ある日、ニューコメンの大気圧機関の修理を頼まれたましたが、それだけに満足せず、その効率の悪さに疑問を持ち、その改良を進め、1769年3分の一の石炭で同じ仕事ができる画期的な蒸気機関を開発、更に改良を重ね、ピストン運動から、ついに回転運動ができる蒸気機関を作り上げることに成功しました。

最初の回転機関は1783年に作られ、翌年蒸気車の特許をとり、その後もたくさんの発明をしました。それらは産業革命の原動力となりました。

動力や電力の単位をワットというのは、彼の名を記念したものです。
ワットの苦労
教育用器具製造者の道を選んだワットだったが、その道も当初は険しく、ロンドン市民でなかったために彼は職人組合に資格すら貰うことができなかった。1765年、蒸気機関を初めて完成させたが、これは売れず、出資会社(発明のためのお金を出してくれる会社)も、つぶれてしまった。
それでも、金属加工の大工場主、ボールトンの援助でワットは研究を重ね、シリンダーの上下の両方に蒸気をおくる、複動蒸気機関を完成させた。
ニューコメンの大気圧機関
ワットより70年前に、イギリスのニューコメンによって発明された機関で、蒸気と冷水とによってシリンダー内に真空を作りポンプを動かすと言う仕組みで、厳密には「空気機関」と呼ぶべきものでした。

しかし、1790年までには,ワットの機関はニューコメンのものを完全に追い払い,1800年までにはイギリスではほぼ500台のワットの機関が使われていました。ワットのものが非常に優れていたため、ニューコメンの存在が忘れられ、ワットこそ蒸気機関の発明者であると思われ始めたのです。
産業革命
石炭を燃やして動かすこの機関は、どんな場所にでも多量のエネルギーを運ぶことを可能にしたため、工場地帯は、水力を利用しないので流れのそばにする必要がなくなりました。そして、工場の中には蒸気機関で動く巨大な機械が置かれ、大量生産が可能になったのです。その一方で、家内工業は非経済的となり、それまでの主力だった職人たちの仕事は工場労働者に奪われることになりました。そして、都市が急激に発達し、農業が衰えていきました。産業革命がはじまったのでした。


彼はその後も改良を続け、ワットの蒸気機関3大発明といわれる発明によって、それまで、揚水機としてしか使われていなかった、蒸気機関を様々な機械の動力とすることに成功したのでした。
   1. 回転速度を一定に保つ遠心調速機
   2. 回転むらを少なくするフライホイール
   3. 蒸気・水の循環サイクル
彼は、強い馬を使って実験をし、馬は1秒間に150ポンドのものをほぼ4フィート持ち上げることができることを知り、毎秒500フィート・ポンドの仕事率を1馬力としました。この単位は今でも使われていますが、メートル法では、彼の名を記念してワットという名称がつけられています。1馬力は746ワットになります。
散歩してますか?
ジェイムズ・ワットは蒸気機関の改良のヒントをゴルフクラブまで散歩中に思いついたといわれています。また、アインシュタインも散歩を好み、哲学者ソクラテスが弟子たちと共に散歩をしながら語り合ったこともよく知られています。
仕事に行き詰まった時や、アイデアに詰まった時など、気分転換で散歩にでかけてみてはいかがでしょうか、アイデアが浮かぶかもしれませんよ。

1月


19日
森鴎外(もりおうがい 本名 林太郎 りんたろう)

(1862〜1922)

明治大正時代の小説家、翻訳家、軍医

石見国鹿足郡津和野町(島根県鹿足郡津和野町)に生まれました。彼の生まれた家は代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、彼も第一大学区医学校(現・東大医学部)予科に入学し、卒業後は陸軍軍医となりました。

そして、明治17年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学び帰国しました。彼は、世界最先端の医学知識をもたらすと共に、ドイツでの留学体験を活かした「舞姫」「うたかたの記」「文つかい」など多くの作品を発表し、また、ヨーロッパ文芸の紹介に勤め、アンデルセンの「即興詩人」やゲーテの「ファウスト」等を翻訳して出版。日本文学界に多大な影響を与えたのでした。

軍医と文学者の二つの顔をもつ彼は、一時、その文学活動を快く思わない者によって、九州・小倉に左遷されてしまいましたが。日清・日露両戦争に出征し、医学博士として軍務に励み、1907年には軍医総監となって軍医としても最高位まで登りつめたのでした。そして、彼は誰はばかることなく、再び文学活動を開始し、「雁」「高瀬舟」「阿部一族」「山椒太夫」などの代表作を次々と発表していきました。

晩年は、帝室博物館長、帝国美術院長を務めましたが、大正11年7月9日亡くなりました。60歳でした。彼は、その死に及んで、「石身人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残し、彼の墓碑には、遺言によって一切の栄誉・称号を排して、「森林太郎墓」 とのみ刻されているということです。
彼は、軍医としても最高位まで登りつめ、一流の文学者としても数多くの名作を残していますが、それだけに、仕事量も桁外れに多く、日に三、四時間しか眠らなかったと言われています。
彼がドイツ留学から帰国した後、彼を追い掛けて、一人のドイツ人女性が来日しています。しかし、彼は人を介して彼女を説得し、この女性をドイツに還してしまいました。皆さんが、ご存知のように、この女性が、有名な舞姫のモデルであったといわれています。しかし、彼女については謎が多く、実際の出来事と「舞姫」に描かれた事との間には、大分隔たりがあるのではないかと言われています。
彼は潔癖症で果物も野菜も決して生では食べず。なんと、饅頭を割って御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべる。饅頭茶づけが好物だったということです。


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