1月


17日
ベンジャミン・フランクリン

(1706〜1790)

アメリカ、政治家、外交官、出版業者、文筆家、科学者
「代表的アメリカ人」と呼ばれる

ボストンの貧しいローソク屋の17人兄弟の15番目に生まれ、印刷業を営む兄の下で徒弟として勤め、1723年フィラデルフィアに移り、翌年イギリスで印刷技術を磨き帰米後、印刷、出版業に従事、23歳で独立「ペンシルバニア・ガゼット」紙の発行者となり、又1732年より売り出された処世訓、格言をユーモアを交えて記した「貧しいリチャードの暦」が評判となり、年間1万部も売れ、啓蒙的な思想家としての彼の名を高めました。

この間、独学で勉強を続け1740年頃から自然科学の実験を熱心に行い、1742年フランクリンストーブ(前開き式鉄製ストーブ)を発明。又、1749年には雷が電気の現象であると考え、雷雨の日に凧をあげて空中放電を確かめ避雷針を発明しました。

又、アメリカ哲学協会の設立や、アメリカ初の巡回図書館、宗教と関係ない近代的学校フィラデルフィア・アカデミー(ペンシルバニア大学の前身)の設立等、文化の振興にも多くの功績があります。

1775年以降は政治家としても活躍、アメリカの独立戦争では、ジェファソンを助け独立宣言起草委員となり、大使として渡仏し同盟条約を結び、1785年9月帰国しペンシルバニア州知事を3年間つとめ、又87年憲法制定会議には最年長者として参加、典型的なアメリカ市民として「すべてのヤンキーの父」と呼ばれ、資本主義精神の体現者でした。しかし、生涯「印刷業者フランクリン」と自称していました。

※ジェファソン(1743〜1826)
  アメリカ合衆国第3代大統領、独立宣言起草者
フランクリン13ヶ条の道徳律
節制  沈黙  規律  決断  節約  勤勉  誠実  正義  中庸  清潔 平静 純潔 謙譲
その他にもこういう言葉があります(インターネットで探したので、正確度は?)
「自負心と嫉妬心は抑えることができない。」
「いかに取繕うとも、公務にたずさわっている者で、もっぱら国家の見地から行動している者はほとんどいない」
「一度面倒を見てくれた人は進んでまた面倒を見てくれる。こっちが恩を施した相手はそうはいかない」
「初めの百ポンドさえ溜めてしまえば、次の百ポンドはひとりでに溜まる」
「時は金なりということを忘れてはならない。自らの労働により一日十シリングを稼げる者が、半日出歩いたり、何もせず怠けていたりうしたら、その気晴らしや怠惰に六ペンスしか使わなかったとしても、それだけが唯一の出費と考えるべきではない。彼はさらに五シリングを使った、と言うよりむしろ、捨てたのである」
フランクリンは、日本でも明治維新以降、近代人のモデルとして教育にも良く取り上げられました、自主・独立・勤労の教え、特に昭憲皇太后がフランクリンの12の徳目を和歌にし、それが華族女学校の校歌にまでなった話は有名です。


昭憲皇太后の和歌に入っている言葉
「寝たいなら、墓場に入ってからでも少しも遅くはない」
「土地を持たぬとあらば、おのが手足に助けを借りよ」
「夜が明けるとともに起き出すことです。太陽に見下ろされて、『恥知らず、ここに横たわる』と言われるな」
「難儀は怠惰から生まれ、大きな労苦は無用の安逸から生まれる」
「勤勉な紡ぎ手には、着替えの着物がたくさんできる」
「注意の不足は、知識の不足にもまして多くの損害を招く」
「学問は勉強家に、富は用心深い者に授かる」
フランクリンの凧
彼は絹のハンカチで凧を作り、その上部に約30cmのとがった針金をつけ、これを長い麻糸で揚げるように用意をしました。1752年7月雷が近づいてきたときに、凧とライデンぴんを持って、凧を揚げると、凧糸に使った麻糸の繊維がちょうど帯電したように直立し、そのとき、こぶしを麻糸に取り付けられた鍵に近づけると、こぶしと鍵の間に小さい電光が飛ぶのが見えたのです。次に麻糸を通してライデンぴんを充電し、この天然の電気で、人工電気と同じ試験を行い、両方が同じものであることを証明しました。これによって、雷が放電現象であることが確認されたのです。
彼は凧をあげて、大気電気を確認する実験をしましたが、この実験を行うにあたっては、念を入れて準備を重ね、慎重のうえにも慎重に実験しています。後に同じ実験をした者が2人いましたが、ともに感電して死亡したということです。この実験は非常に危険で、彼も、一歩間違えれば命を落としていたかもしれません。
彼は睡眠時は2つベッドを並べて時々入れ替わらないと眠れなかったといわれています。

1月


17日
ロイド・ジョージ

1863〜1945

「踏み出すことが望まれているなら、恐れずに大きな一歩を踏み出せ。
 大きな地割れを、小さく二回に分けて跳び越えることはできない。」

イギリスの政治家

小学校教員の子としてマンチェスターで生まれました。彼が1歳のとき、父が亡くなりましたが、弁護士事務所に勤務して、独学で弁護士資格を得て1884年に開業しました。そして、1890年に27歳の若さで下院議員に選ばれ、自由党に属しました。

1908年、蔵相となり社会福祉をはじめて盛り込んだ有名な「人民予算」を組みました。1911年には議員法によって上院の権限を制限し、上院に対する下院の優越を確立し、その後も、国民保険法、失業保険法を成立させて、イギリスの社会保障の基礎を固めてゆきました。

1914年に第一次世界大戦が起こると、断固たる戦争指導を支持、軍需相として活躍し、さらに陸相となっています。アスキス首相の戦争指導方針に反対して、辞任に追い込み、首相となって、わずか5人の閣僚から成る「戦時内閣」を組閣し、積極的な指導を行って大戦を勝利に終わらせました。

戦後ベルサイユ講和会議に自らイギリス全権として出席、アメリカのウィルソン大統領らと会議を切り回し、フランスの過酷な対独要求の緩和に努力して、ベルサイユ条約に調印しました。

しかし、1922年、保守党が連立内閣から脱退したため首相を辞任しました。その後、自由党の党首となり社会改革を提唱しましたが、労働党の躍進や大恐慌により党の勢力を回復できず、指導力を失っています。


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