1月


16日
アンドレ・ミシュラン 1853〜1931 (男性)

フランス、実業家、世界屈指のミシュラン・タイヤ会社の創設者

フランス、オーベルニュ地方で生まれ、エコール・サントラル・ド・パリで技師の資格を取り、ボーザールの建築科に入学。5年間内務省で国土地図作成に携わり、パリで鉄骨メーカ設立などに携わった後、弟が経営する会社に参加しました。技師としての教育を受けた兄のアンドレは、コミュニケーション能力に優れ、広報面で大きな役割を果たしました。

その後、兄弟で協力しタイヤの発展に寄与し、脱着可能な自転車タイヤの特許を取得。その後、辻馬車用のタイヤを開発し、1895年に自動車が登場したとき自分達で「エクレール号」(稲妻号)を設計し、世界で初めて自動車に空気入りタイヤを装着。エクレール号はパリ・ボルドー往復レースに出場、自ら運転し規定時間内に完走。この時から、自動車に空気入りタイヤが使用されるようになりました。その後、複輪タイヤや脱着可能なスチール製ホイールを考案しました。

また地図と旅行案内書の発刊でも、ミシュランの名前は有名になってゆきました。そして、ミシュランは当初は、農業機械とポンプを製造する小さな家族会社でしたが、その後、ミシュラン兄弟の力で社員数2万5千人の国際的グループになりました。
エクレール号とは「稲妻」を意味しますが、これは、稲光のようにジグザグ走行しかできないため名づけられました。工場のドライバーたちは誰も運転したがらず、ミシュラン兄弟は自らこの困難な仕事に挑み、数々のアクシデントを乗り越え、なんとか完走しました。
もうひとつのミシュラン
「ミシュラン」といえば、現在では、レストランの星の増減をめぐって論争が起こるほどの影響力をもつレストランガイドとして広く認知されていますが、もともとは1900年「給油や修理、宿泊や食事をどこでするか、手紙や電報をどこで出せるかなどあらゆる情報を掲載し、ドライバーの皆様に役立てていただきたい」との思いからミシュランから創刊されたものです。このガイドは35000部ほど印刷され、ドライバーに無料で配られました。
エクレール号 (パリ・ボルドー往復レースの顛末)
プジョーの車体にダイムラーの4馬力エンジンを搭載したエクレール号は、どの自動車メーカーもパリ−ボルドー往復レースに参加する車に空気入りタイヤを装着しようとしなかったため、ミシュラン兄弟自身の手で組み立てられた。エクレール号の車体重量は1200キロ、大きな木箱に5リッターのガソリンタンクがついていた。
エクレールとは「稲妻」の意味だが、走行速度が速いという理由で名づけられた訳ではなく。稲光のようにジグザグ走行しかできなかったからである。このように大変操縦しにくい車だったので工場のドライバーたちは誰も運転したがらず、ミシュラン兄弟は自らこの困難な仕事に挑んだ。パリでミシュランの空気入りタイヤは大きなセンセーションを巻き起こし、疑い深い人の中にはタイヤの中身を見たがる人さえいた。
レース中はハプニング続きで、パリのシャン・ド・マルスでは、誤って水をガソリンタンクに入れ。ポワティエでセカンドとサードギアが壊れたため、トップギアに入れるには下り坂まで待たねばならなくなり、ブロワでは燃焼器を消さずに給油をしたせいで火事になったが、幸い大事には至らなかった。150キロごとにタイヤ交換をしなければならず、その都度30分かけて20ヶ所ボルトを外しタイヤを取りはずした。車輪のスポークも3度にわたって全部交換した。
このレースでゴールを認められたのは8台。エクレール号は9番目で規定の100時間以内にゴールインしたが、車輪を交換したため失格扱いとなった。


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