1月


15日
マーティン・ルーサー・キング(キング牧師)1929〜1968

「 さて、わが友よ。われわれは今日も明日も困難に直面しているが、
 それでも私には夢があると申し上げたい 」

アメリカ、牧師、人種差別撤廃運動家(男性)

ジョージア州アトランタに生まれました。彼の両親は、共に黒人の名門大学に学んだインテリで、彼自身も父と同じ大学(黒人のためのモアハウス大学)に進学しました。彼は、父と同じ牧師の道を進もうと、卒業後はペンシルバニア州のクロイツァー神学校
に進み、ボストン大学を出て博士号を取得しました。

公民権運動に参加し始めたのが26歳でした。以来、反対派や州警察からさえ何度も暴行を受け、投獄され、胸を刺されて危うく一命を取り留めるということもありました。家に爆弾を仕掛けられ家族を殺されそうになりながらも、「物理的力には魂の力をもって応えなければならない 」と訴え、非暴力による運動を指導しました。

彼は、インドのガンジーの非暴力主義による闘争を人種差別是正の手段として持ち込み、魂の力によって戦ったのです

そして、牧師として着任していたアラバマ州のバス内での人種差別に抗議して、1955年から56年にかけて公営バスボイコットを非暴力直接行動により成功させました。

その後、南部キリスト教指導会議(SCLC)を創設し、1963年には、約20万人を動員して、黒人の公民権を求めるワシントン大行進を行い、その歴史的な名演説の中で「I have a dream(私には夢がある)」と訴えました。

そして、1964年には運動の努力が実り、公民権法が制定され、ノーベル平和賞を受賞しました。その後、1967年には活動をベトナム反戦運動にまで拡大しています。

しかし、1968年4月4日、黒人清掃作業員のストの支援に出かけたテネシー州メンフィスで、宿舎のバルコニーにいるところを、ライフル銃で狙撃され暗殺されました、39歳でした。

キング牧師の偉業を称え、1月の第3月曜日が祝日となりました。
アメリカでは、アメリカの歴史を変えた4人の偉大な人物の誕生日、またはその人にちなんだ日を祭日としています。4人の名前はマーティン・ルーサー・キング牧師(1月)、ワシントン大統領(2月)、リンカーン大統領(2月)、そしてコロンブス(10月、アメリカが発見された日)です。
彼の死から15年後、彼の誕生日は祭日となりました。
公営バスボイコット運動
黒人の主婦、ローザ・パークスという女性が、バス内の座席が白人優先であ
ることに抗議し、逮捕されたことから、1年間にわたってバスのボイコット
運動は続けられ、ついに最高裁判所から交通機関における差別待遇は違憲で
あるとの判決を勝ち取りました。
私には夢がある(演説の一部抜粋)
「私には夢がある。いつの日か、元奴隷の息子たちが、元奴隷所有者の息子たちと、友愛というテーブルに共につくことができるようになるという夢が。私には夢がある。私の4人の小さな子供たちが、いつの日か、彼らの皮膚の色ではなく、彼らの人格によって判断される国に住むようになるという夢が。私には夢がある。いつの日か、小さな黒人の男の子と女の子が、小さな白人
の男の子と女の子と、手をつなぐことができるようになるという夢が」
「黒人も白人も、ユダヤ教徒も異教徒も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子が手を取り合って、古い黒人霊歌を口ずさむことができる日が来るのを」
I still have a dream.
It is a dream deeply rooted in the American dream.
I have a dream that one day this nation will rise up
and live out the true meaning of its creed:
We hold these truths to be self-evident:
that all men are created equal.
I have a dream that one day on the red hills of Geogia
the sons of former slaves and the sons of former slaveowners
will be able to sit down together at the table of brotherhood.
I have a dream that my four little children will one day live in a nation
where they will not be judged by the color of their skin
but by the content of their character
アメリカのテロについて、ブッシュ大統領がマイクを持ってテレビ番組で観客に演説ました。その内容は、キング牧師の「I have a dream.」の演説を引用したものでした。
「私には夢がある。イスラエルに平和がもたらされることだ。平和を妨げるテロは排除しなければならない」
キング牧師の夢とは、真反対の演説。キング牧師は、対立する両者の子供たちが仲良く机を並べて勉強することだったのに、ブッシュの夢は友達が平和に暮らすためには友達以外は いなくなればいい、というものでした。(もちろん、テロは憎むべき犯罪ですが)

キング牧師の次の言葉をブッシュ大統領は知っているのでしょうか。
「仕返しに暴力を使っても、問題の解決にはならない。汝の敵を愛せよ。汝を呪うものを祝福せよ。汝を虐げるもののために祈れ。それが私たちの生きる道だ。憎しみには愛をもって報いなければならない。」

1月


15日
西条八十 (さいじょう やそ)

(1892〜1970)

「唄を忘れた 金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂
 月夜の海に 浮かべれば 忘れた唄を おもいだす」

詩人

東京牛込でせっけん製造業を営む裕福な家に生まれました。早稲田中学で学び、そこで出会った新任教師の吉江喬松に強い影響をうけ、彼をしたって早稲田大学英文科に入学しました。この時東京帝国大学も受験して、国文科専科生となっており、彼は早稲田大学へ東京帝大の帽子をかぶって、平気で通学していたということです。

日夏耿之介らと同人雑誌「仮面」を発行し、三木露風を中心とする雑誌「未来」の同人となり、詩集「砂金」などを発表し、明るく華麗な抒情詩人として有名になりました。

彼は、その後童謡に転じ、雑誌「赤い鳥」に童謡を発表し、北原白秋と並び称されました。その後、これらの作品を「鸚鵡 (おうむ) と時計』にまとめて出版しています 。

1924年、フランスのソルボンヌ大学に留学し、2年後帰国して早稲田大学文学部の教授となって、マラルメやランボー、メーテルリンク等の海外文芸を広く紹介しました。

また彼は、民謡や歌謡曲の作詞家としても活躍し、「青い山脈」「蘇州夜曲」「愛染かつら」「東京行進曲」「王将」「雨の夜汽車」など数々の名曲を作詞しています。

自叙伝的随筆に「あの夢この夢」があり、ほかに詩集「見知らぬ愛人」「美しき喪失」、訳詩集「白孔雀」などがあります。
「かなりや」 詞・西条八十(1918年)

  唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
  後の山に棄てましょか
  いえ いえ それはなりませぬ

  唄を忘れた金糸雀は
  背戸の小薮に埋めましょか
  いえ いえ それもなりませぬ

  唄を忘れた金糸雀は
  柳の鞭でぶちましょか
  いえ いえ それはかわいそう

  唄を忘れた金糸雀は
  象牙の船に銀の櫂
  月夜の海に浮かべれば
  忘れた唄をおもいだす

この唄を忘れた金糸雀は詩人としての希望を失いかけていた八十自身のことだといわれています。
西条夫婦のお墓は本の形をしていて、そこにはこう刻まれているそうです。

「われらたのしくここにねむる 離ればなれに生まれ めぐりあい
 短き時を愛に生きしふたり 悲しく別れたれど
 ここにまた 心となりてとこしえに寄りあいねむる」
「麦藁帽子」     西条八十

母さん、ぼくのあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷から霧積へいくみちで、渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
ぼくはあのときずいぶんくやしかった。
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき向こふから若い薬売りが来ましたっけね。
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとしてずいぶん骨折ってくれましたっけね。
だけどたうたうだめだった。
なにしろ深い谷で、それに草が背丈ぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき旁で咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。
母さん、そしてきっといまごろは
今晩あたりは、あの谷間に、静かに霧が降りつもっているでせう。
昔、つやつや光ったあの伊太利麦の帽子と
その裏にぼくが書いたY・Sといふ頭文字を埋めるやうに、静かに寂しく。
西条八十というのは、本名で、彼の両親が苦労のないようにと九を抜いた八と十で八十と命名したといわれています。


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