1月


14日
アルバート・シュバイツァー(1875〜1965)

「アフリカ人を 野蛮だからと言って人間ではないと思わないでください
 どうか まずしいかれらのことを 考えてやってください」

ドイツ 神学者、哲学者、医師、音楽家 (男性)

牧師の子として当時はドイツ領であったアルザスのカイゼルスベルグに生まれました。シュトラスブルグ大学で哲学と神学を学び、1899年哲学博士となります。

ベルリンやパリで音楽を勉強し、1902年大学の講師となりますが、1905年アフリカへの医療伝道を決意し、医学を学び、1911年結婚、1912年医学博士となり、1913年看護婦であった夫人とともにフランスの植民地であったガボンに渡り、ランバレネ病院(熱帯病病院)を建て、黒人の教育と医療に尽くします。

第一次大戦が始まるとフランスに送還されますが、世界的にも知られたバッハの優れたオルガン奏者でもあった彼は、演奏会で賃金を得、戦後再びアフリカに渡りこわれた病院を再建し黒人の救済に努力を続けました。

彼の献身は「密林の聖人」と尊ばれ、1952年にノーベル平和賞を受賞しました。

その後も、彼は平和のための活動を続け、特に核実験の禁止を強く訴えていました。

日本では内村鑑三が早くから彼を知り援助しました。又ゲーテ賞も受賞しています。

著書 哲学 「カントの宗教哲学」「文明の哲学」
   神学 「パウロとその弟子」「キリスト伝研究史」
   音楽 「バッハの生涯」「独仏のオルガン製作と奏法」等多数

※内村鑑三(1861〜1930) 明治大正期のキリスト教思想家
  無教会主義のキリスト教を唱える。平和主義者「聖書の研究」
シュバイツァーの残した言葉
「人間とは生きようとする生命である。こう認識することで私たちはあらゆるものの生命に畏敬の念をもつことが出来る。 自分の生命の中に、他者の生命を体験するのである。悪とは生命を傷つけ破壊することである。」 

「すべての生命は、他の生命を犠牲にして生きている。しかし人間は、自分を破滅させる怖れのある他の種さえも思いやる同情心と、判断力を 持っている唯一の生き物だ。」

「(蟻を)踏んづけちゃだめだ。彼らは生きるためにこうしている。本能に導かれているんだ。われわれ人間の場合と全く同じだ。しかし、われわれの生存を脅かすような場合には、 こちらもそれ相応のことをやらなくてはならない。」
彼は大学時代に、「30歳までは学問と芸術に生きることが許されるとしても、それから後は、直接人間に奉仕する道に進もう」と決心したといわれています。
彼が運営するアフリカのランバレネ病院に、マリアンフレミングという、汚い仕事を一手に引き受けている美貌の看護婦がいました。ハンガリーの貴族の娘として生まれた彼女はいろいろな楽器の演奏に優れており、ビエンナで最も有名な演劇俳優として名声を轟かせたこともありました。何一つ不足のない生活をしていた彼女はある日、シュバイツァー博士の賛美の演奏を聴いて感動しました。
「今まで私の人生は虚像だけでした。他の人のための生活にまことの価値がある。」と、彼女はその場でアフリカ行きを決心し、そして、20年間、病院で全ての病人のために愛を施し続けて亡くなったのです。
彼女が残した最後の言葉は「他人のための生活はこんなにも幸福なのに…」であったということです。
幼年期のシュバイツアーの体験談として、こんな話がありました。
ある時、ドイツの悪童どもが、ユダヤ人を嘲りながら、皆で石をぶつけていました。ところが、そのユダヤ人は怒るどころか、その悪童どもににっこりと微笑んだのです。その笑顔を見た時に、一緒に石を投げつけようと握っていたシュバイツアー少年の手から、ぽろりと石が落ちました。
そのとき彼は、皆と一緒に悪いことをするのでなく、自分の神から与えられた道を歩む生き方を学んだのです。やがて、大きくなって、アフリカに悪疫が流行って医者がいないことを知った時に、彼は、今までのオルガニストとしての歩みをやめ、新たに医学を修めて、アフリカの地へと旅立ってゆくのでした。
「人は将来を予知し,それに予防的に対応する能力を失っている。彼は地球を滅して終わるだろう」

1月


14日
新島 襄(にいじま じょう 本名 七五三 しめた)

(1843〜1890)

「一国の良心ともいうべき人々を育成する」

明治時代の教育家

群馬の安中藩主板倉家江戸上屋敷で生まれました。彼の曽祖父中島忠七は、この板倉家の藩主板倉勝明に仕え、書道の先生や、祐筆(書記)として活躍していました。彼も小さい頃から習字・絵画・漢字・礼儀作法等を学び、13歳の時には藩から選ばれてオランダ学問を学びました。

彼が、21歳のとき、世界を見ようと、幕府の禁を犯して海外に渡航しました。船は上海・サイゴン香港等を経由してボストンに到着しましたが。彼は、途中寄港した、アジアの国々が西欧列強によって植民地化されている実態を目の当たりにし、強い危機感を抱きました。

その後、彼は、洗礼を受けてクリスチャンになり、ボストンでフィリップス高等学校を卒業。アーモスト大学では理学士の称号をうけ、卒業した。アンドーバー神学校に入学し、神学を学ぶ。

そして、1872年、日本より岩倉具視や伊藤博文等が訪れましたが、その時の通訳や文化の説明などを彼が行ないました。さらに、岩倉使節団と共に教育・文化施設を見学し、教育制度を調査することとなり。その結果、彼は、これからの日本に必要なものは、キリスト教と、高等教育を受けた主体的な人間であると考えるようになりました。

彼は、1874年に日本に戻り、翌年には、京都にキリスト教的な自由自治主義教育の私立学校同志社英学校を開校し、日本キリスト教界の先達として、政府や仏教界との圧力とも戦いながら、同志社英学校を大学にするため、基金を募ったり、布教活動を継続して行なっていましたが、激務からか体調を崩し、1890年1月に亡くなりました。
彼の本名は、七五三(しめた)というのですが、これには女性が4人続いたあとの初めての男子だったため。それを喜んだ祖父弁治が、「しめた 」と膝をたたいて喜んだため、この名前になった。とか、また生まれたのが松の内でもあり七五三(しめ)飾がしてあったので、この名前になったとか、その両方だとかいう説もあるそうです。
襄という名前は、日本を離れた時の船の船長が、彼のことをジョー(JOE)と呼んだからと言われています。しかし、そのJOEは旧約聖書の中で、自分の民族を救う人物の名前「JOSEPH(ヨセフ)」から来ていることを知った彼は、ジョセフ・H・ニイジマと名乗るようになり、日本に帰ってからは、自ら襄を当て字として、新島襄と名乗るようになったといわれています。
彼は教育宣言の中で、「一国の良心」について次の様に述べています。
「一国を維持するのは、決して二、三の英雄の力ではない。実に一国を形成する、教育があり、知識があり、品性の高い人たちの力によらなければならない。これらの人たちは「一国の良心」と言うべき人たちである。そして私たちはこの「一国の良心」[良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)]ともいうべき人たちを養成したいと思う。」


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