1月


12日
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ

(1746〜1827)

「すべてを他人(ひと)のためにし、己には何ものも求めず」

スイス、教育家、教育学者(男性)

スイスのチューリッヒで外科医の次男として生まれましたが、幼いときに父が亡くなり、年金生活を送りました。近くのヘンク村で牧師をしていた祖父のところへ遊びに行っていた時に、貧しく十分な学校教育を受けずに働いている子供達を見て幼い心を痛めていました。

その後、大学で神学や法学、哲学などを学び、ルソーの「エミール」を読み、教育を志します。そして、チューリッヒ郊外で理想的な農園経営を試み、かたわら貧民学校経営をはじめましたが失敗します。(自分は小川の水を飲んでも子供達にパンを与えたといわれています)この間の苦しい経験から「実物や実行から、直接学ばせて、子供の能力を伸ばす」という近代的な教育原理と方法を見いだし、1780年「隠者の夕暮」1781年「リーンハルトとゲルトルート」を発表、教育界に名を高めました。

1798年スイス革命が勃発し、革命政府に教育面での奉仕を申し出、53歳のときシュタンツ村に派遣されます。シュタンツ村は、革命政府に最後まで抵抗したため、フランス軍により焼き討ちされ、そのため、孤児になってしまった子供達を修養する施設を任されたのです。大人を信用できなくなった子供達を温かい愛情で包み、信頼関係がようやくできてきたころ、建物が軍の病院になってしまい半年で閉鎖されてしまいます。気落ちし吐血してしまいます、その静養中に書いたのが有名な「シュタンツだより」です。

どんな子供でも生き生き学べるような学校を創ることを夢見ていた彼は、今度はブルクドルフで私立小学校を開き「ゲルトルードはどのようにして、その子を教えたか」を発表。その教育愛、ヒューマニズムはヨーロッパ、アメリカの教育界に大きな影響を与えます。

その後、教員養成のため、ジュネーブ近くにイヴェルドン学園を開きます。フレーベルもここで学んだ一人です。その後20年間全ヨーロッパの教育の中心地となります。1806年には、当時珍しかった、女子学校を併設。1813年にはスイス初の聾唖学校も設立、又、年金をなげうって長年の夢であった貧民学校を創ったのでした。

1792年フランス国民議会から人類の恩人としてフランス名誉公民権が与えられました。彼は死ぬまで子供達が自分が有用な価値のある人間だと言うことに気づき安らぎのある人生を送れるようにしてやりたいと思い続けていました。墓には「すべてを他人(ひと)のためにし、己には何ものも求めず」と書かれているそうです。
ドイツのフレーベルは彼に師事し、イギリスのオーエンは彼を訪ねて、その帰国後に彼の主義による教育を採用した。また、日本の倉橋惣三も彼の教育思想を吸収しています。
彼がシュタンツに単身赴き、孤児院の教育をしたときのことを、こう語っています。「私は彼らと泣き、彼らと笑った。彼らは世界を忘れ、シュタンツを忘れた。彼らは私と共にあり、私は彼らと共にあった。彼らの食べ物は私の食べ物であり、彼らの飲み物は私の飲み物であった。私は何ものももたなかった。ただ彼らだけをもっていた。……私は彼らの真ん中で眠った。夜は一番あとで床に就き、朝は一番早く起きた。私は床の中で、彼らの眠るまでなお彼らと共に祈り、彼らを教え、彼らはそれを欲した」。
リーンハルトとゲルトルート」
この教育小説は、ゲルトルートを主人公にして、スイスの農民生活を描いたもので、その内容はというと、ある村に石工のリーンハルトという夫がいた。彼は悪友に誘われて飲食にふけり、家を顧みない。その妻ゲルトルートは、自分の子に紡績、農芸などを一生懸命授け、また国語、算術などをも教えたが、他家の児童も来てその教えを受ける者が多くなった。そこで、ついに村の有力者は、民風を改めるためには何よりも教育が必要であると言い、学校を開いたというものです。


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