1月 10日 |
島村 抱月 (しまむら ほうげつ) (1871〜1918) 「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか」 明治大正期の文芸評論家、新劇指導者 島根県金城町小国に生まれ、少年時代浜田市の裁判所検事島村文耕の養子となり上京、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、在学中は文学を逍遙に、哲学を大西祝に学び、文学と哲学の交差点としての美学の研究に深い関心を抱き、この態度は終生続いたといわれています。卒業後は、イギリス、ドイツに留学、帰国して早稲田大学の講師になり、美学・文芸史などを担当、雑誌「早稲田文学を」復刊させ、自然主義文学を推し進めました。 明治三十九年一月から坪内逍遥の文芸協会の仕事を助けて幹事となり、演劇にも深くたずさわるようになりましたが、大正二年、意見の相違から恩師の坪内逍遥と離れて、早大教授の職を辞し、女優松井須磨子と共に「芸術座」をつくりました。が、当初は経済的に行き詰まります。 しかし、トルストイの「復活」で須磨子の歌った劇中歌「カチューシャの唄」が一世を風靡し、全国各地、中国大陸へまで巡業、新劇の普及に尽くし、大衆文化に大きな役割を果たしました。 しかし、大正7年スペイン風邪による急性肺炎により、芸術倶楽部の一室で亡くなりました。48歳でした。そして、彼の死の2ヶ月後の翌年1月5日、松井須磨子は、同じ芸術倶楽部において、あと追い自殺をしたのでした。 代表的な著書に「新美辞学」「近代文芸の研究」があります。 ※坪内逍遥(1859〜1935)小説家、評論家、劇作家「小説神髄」等 ※松井須磨子(1886〜1919) 日本初の近代劇女優 |
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島村抱月が亡くなった2ヵ月後、松井須磨子は、同じ場所、同じ時刻に後を追ったそうです。 | |||||
彼の生まれた、金城町では、町の誇りとして抱月を顕彰していくことを決め、1990年「生誕地顕彰会」を作り、顕彰の杜を設定しました。そして、48歳の若さで亡くなった抱月の生誕120周年に当たる1991年彼の胸像や顕彰碑が金城町民の手によって建てられたということです。 |
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カチューシャの唄 作詩 島村抱月・相馬御風 作曲 中山晋平 大正3年 1 カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか 2 カチューシャかわいや わかれのつらさ 今宵一夜に 降る雪の 明日は野山の(ララ)路かくせ 3 カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて又逢う それまでは おなじ姿で(ララ)いてたもれ 4 カチューシャかわいや わかれのつらさ つらいわかれの 涙のひまに 風は野を吹く(ララ)日はくれる 5 カチューシャかわいや わかれのつらさ ひろい野原を とぼとぼと ひとり出ていく(ララ)あすの旅 |
1月 10日 |
高山樗牛 (たかやま ちょぎゅう 本名 林次郎) 1871〜1902 「自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧き出る」 明治時代の文芸評論家 山形県鶴岡で斎藤親信の次男として生まれましたが、父の兄の高山久平の養子となり、養父が福島県庁に勤務したので福島に住んでいましたが、明治19年16歳の時に養父の東京転勤で東京に移りました。 明治26年、23歳で東京帝国大学文科哲学科に入学しました。彼の級友には、土井晩翠、笹川臨風などがいました。1894年在学中に「読売新聞」の懸賞小説に応募した「滝口入道」が入選し、文壇進出のきっかけとなりました 「滝口入道」で一躍有名になった彼は、雑誌「帝国文学」の編集委員となり、雑誌「太陽」に評論を書いたりしていました。卒業後は、第二高等学校の先生となりますが、1年足らずで京し「太陽」編集主筆として復帰します。東京大学や早稲田大学でも教えました。 彼は、日清戦争後の国家主義の高まりにあわせ、「日本主義」の立場で国民文学をとなえ、「文明評論家の文学者」を書いてニーチェ哲学を賛美し、「美的生活を論ず」を書いて本能的な個人主義を説きました。彼の主張は、このようにめまぐるしく変化しましたが、一貫して強い影響力を持っており、多くの青年を熱狂させました。 晩年は、日蓮上人崇拝へと急激な思想転換をし「日蓮上人とは如何なる人ぞ」「日蓮上人と日本国」等を執筆しましたが、明治35年12月24日、結核のため31歳で亡くなりました。 |
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彼は、明治33年文部省から欧州留学を命じられ、本当なら夏目漱石とともに英国に留学するはずでした。しかし、不幸にも、彼は結核にかかってしまい、喀血し、療養生活に入りましたが、病の回復の見込みが立たず留学を断念します。そして、その後の療養生活もむなしく、わずか2年後には亡くなってしまったのでした。 |