1月


7日
前島 密(まえじま ひそか)

(1835〜1919)

「日本近代郵便の父」

政治家

越後(新潟県)高田藩士上野助右衛門の次男に生れ、生まれて八ヶ月で父を亡くし、母親一人の手で育てられました。12歳の時、医者になるために蘭学の勉強をしようと志した彼は江戸に出ましたが、なかなか書生の口がなく苦労し、どうにかあちらこちらの医者や漢学者の家に書生として住み込み、働きながら勉強を続けました。そののち幕府の函館諸術調所で蘭学・英学を学びました。

1866年前島家を継いだ彼は、名前を前島来輔、後に密と改めています。明治2年、明治新政府に仕え、民部省の役人となり、翌年、郵便制度の調査と鉄道建設の借款契約を結ぶためにイギリスに渡り明治4年夏帰国し、駅逓頭(えきていのかみ)となり、飛脚部屋を買収して郵便を官業に統一し、郵便切手、郵便ポスト、全国均一料金制を採用するなど、日本の近代的な郵便制度創設に尽くしました。その後、郵便貯金や郵便為替、電信、電話等の発展に尽くしています。

明治14年の政変で大隈重信とともに官をやめ、立憲改進党の結成に加わりました。その後、東京専門学校(現早稲田大学)校長になり、また、明治21年から4年間逓信次官をつとめています。

その後、実業界に入り、鉄道、汽船、鉱業、生命保険会社の重役にもなりました。特に室孝次郎らの信越線の全通運動への援助、北越鉄道会社社長になり新潟と上野間の鉄道開通に努力するなど郷土を深く愛し、行動していましたが、大正8年、84歳で亡くなりました。

※大隈重信(1838〜1922)明治大正時代の政治家
立憲改進党の総裁、東京専門学校(現早稲田大学)の創設者

※駅逓(えきてい)
郵便の古い言い方で。郵便局は、明治四年八月から同十年一月までは駅逓寮、明
治十年一月から、同二十年三月までは駅逓局と呼ばれていました
彼が駅逓権正として最初に決済したのが、公用通信費として飛脚業者に支払う運賃だったそうです。そして、その金額が余りにも大きいことから、安価で、どこからでも自由に利用できる郵便事業の創設を構想したといわれています。
前島密の「郵便創業談」によると、郵便貯金の開業当時は、まだ「宵越しの金は持たぬ」といったことを誇りとする風潮の強い頃だったので、最初は幾らかの金を渡して預けて貰うなど、貯金を広めるのに苦労
したといいます。
1871年3月、東京・大阪間で郵便が始まりました。
第1便の所要時間は78時間でした。(江戸時代の町飛脚は、東海道を6日かかって運行したそうです)。この郵便制度は「新式郵便」といわれました。毎日運行され、郵便取扱所などのほかに郵便ポストを設置し、郵便物に切手を貼り、戸別に配達するなど、従来の飛脚便とはまったく方式が違うものだったからです。翌1872年には全国的に郵便を実施し、73年には郵便事業を政府の専掌として民間の飛脚便を禁止、全国均一料金制も採用しました。そして、1887年には逓信省と手紙を象徴するマーク〒が制定されています。
特定郵便局の生みの親
駅逓頭(えきていのかみ)という職にあった前島は、まず全国のネットワークを作る必要に迫られました。そこで思いついたのが、全国各地の地域の中心人物である庄屋や名主を拠点にした連絡網を形成することだったのです。つまり、彼らの自宅を、郵便局に利用するということを考え付いたのです。

旧名主に郵便をあつかう気にならせる上で郵便事務が公務であること、局長は官吏に準ずる(特定郵便局)という礼遇をし、さらに、維新以前の士分の禄が米だったということで金銭で給与せずわざわざ玄米一日5合にしました。礼遇を受けたとして旧名主たちはその公共的精神もおおいに高まったといいます。そんな公共性と面の広がりとがあいまって預貯金機能も付加されていったのでした。


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