1月


6日
ジャンヌ・ダルク

(1412〜1431)

「私以外にこの国を救える者はありません」

フランス、愛国的少女

ドイツ・フランス国境に近いドンレミ村の貧しい農家に生まれ、信仰心の厚い少女として育ちました。

13歳の頃から神の声や、聖者の声を聞くようになり、百年戦争で祖国フランスが、イギリス軍に侵入された時「フランスを救え」という神の声を聞き、郷里を出て、ブルゴーニュ公の陰謀で王位継承権を奪われたフランスの皇太子シャルル7世のいるシノンに向かいました。

当時皇太子だったシャルル7世を説得、軍隊を指揮し1429年オルレアン城を包囲していたイギリス軍を破りシャルル7世の戴冠式を行わせました。

その功績により彼女は貴族に列せられましたが、そのことが、王側近達の恨みをかうことになり、彼女は陰謀によってコンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕らえられ、イギリス軍に渡されます。結果、王によってイギリスへ売り渡されたかたちとなり、宗教裁判にかけられ異端者(魔女)として1431年5月28日、ルーアンの広場で火刑に処せられたのです。

彼女は、最後の瞬間まで十字架に祈りをささげるこを望み、木の枝を十字に重ねただけの十字架を火あぶりの間自分が死ぬまで眼前にかざしてもらい、わずか19歳の生涯を閉じました。彼女の体の灰はセーヌ川に流されたということです。

戦争終結後民衆の要望により復権裁判が行われ無罪の判決が下されています。さらには、ローマ教会がジャンヌを聖女に列しその功績を称えました。

※百年戦争
フランスの王位継承問題、羊毛工業地帯フランドルの主導権争い等が原因となり、1337年〜1453年の間、断続的に戦われた英仏間の戦争。前半英国が優勢だったが、ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放等により、形勢は逆転し、カレーを除く全フランスから英軍が撤退して終結した。
ジャンヌがシノンに着いた時、すでにこう言ったそうです。「1年は生き長らえましょうが、それ以上は無理です。」彼女は自分の運命すらも、告げられていたのかもしれません。
国王への取次ぎを頼まれた、ボードリクール守備隊長は、最初にジャンヌを追い返す時、彼女と一緒に来ていた男に、「彼女に往復びんたの一つも食らわせて即刻家に連れて帰れ」と命じたそうです。
シャルル7世の晩年は、ジャンヌ・ダルクをイギリスへ売り渡したことへの非難と皇太子との不仲から精神に異常をきたし、ついには毒殺されることを恐れて食事を拒み餓死したということです。
「聖剣」と「百合」
ジャンヌは、オルレアンに向かう前に、自分用の剣をフィエルボアにあるサントカトリーヌ教会にとりにやらせました。教会職員は剣のありかを知りませんでしたが、彼女の言った通り、剣は祭壇の後ろの箱の中に入っていたのです。それははるか昔、初代王クロービスが使っていたというまさに伝説の剣でした。この剣は人を殺す為の剣ではなく、シンボルとしての剣で、実際ジャンヌはこの剣で人を殺さなかったといわれています。

また、彼女は、神のお告げに従って、長い三角形の吹き流しに、百合の花を持ち神の祝福を受ける天使の姿を描いた軍旗を用いていました。百合の花は純潔の象徴で、事実ジャンヌは生涯といってもわずか19年ですが、純血を守ったといわれています。

1月


6日
ハインリッヒ・シュリーマン

1822〜1890

ドイツの考古学者。

ドイツの小さな町、ノイブコーの貧しい牧師の家に生れました。父から8歳のときのクリスマスに「子供のための世界史」をプレゼントされ、彼は、その本のトロイ落城の挿絵に魅せられ、彼は、このトロイ遺跡の発掘を生涯の夢として追い続けることを決意したのでした。

その後、彼は14歳で実業学校を卒業し、雑貨屋に見習いとして就職します。しかし、体をこわし、職を転々とすることになってしまうのでした。しかし彼は、その国の言葉で書かれた小説をまるごと一冊暗記することによって、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガル、英語やロシア語をを独学で言語をマスターし。その言語能力を生かしてロシアにおいてインド藍や木綿の等の貿易で大成功して巨万の資産を築いたのでした。

そして、40歳を過ぎたころ事業から一切手を引き、ギリシア語と考古学の研究の後、1870年、少年時代からの夢であったトロイの発掘に取りかかったのです。

彼は、独自の研究結果から、学界の定説に反して海に近いヒッサリクの丘をトロイと考えて発掘を始めました。そして、第1回目の発掘で城壁や財宝を掘り出し、専門の学者たちを驚かせたのでした。そして、当時一般の人々にフィクションと思われていたホメロスの伝説が、史実に基づいた物語であることを証明したのでした。

さらに、1876年からはミケーネの発掘に取りかかり、ここでも「黄金の仮面」をはじめとする副葬品を数多く発掘したのでした。

さらに彼はクレタ島の発掘に取りかかったのですが、1890年12月26日にナポリで亡くなりました。
トロイ遺跡は重層構造になっており、シュリーマンがトロイ文明と信じたものは後にそれよりも古い遺跡だったことが判明しています。また彼は垂直に遺跡を掘り下げていったため、トロイ文明以降の遺跡を根こそぎ破壊したと非難されたり。トロイ遺跡の発掘が子どもの頃からの夢だったというのも嘘だったとか、とかく中傷にはこと欠きません。しかし、ギリシアの先史文明を考古学的に実証した功績はきわめて大きいとされています。
彼が幼い時、近所に住んでいた幼馴染の少女、ミンナ・マインケは彼のトロイ遺跡の発掘という未来の計画に心から賛同し、2人は幼いながらも永遠の愛を誓ったのです。そして、立身出世を果たした彼は、24歳の時、彼は初恋の彼女に手紙を出したのですが、彼女はなんと数日前に他の男性と結婚していたのでした。彼は、絶望のどん底に突き落とされましたが、なんとか立ち直って再び商売に励むようになったということです。
トロイ戦争

昔々アテナ・ヘラ・アフロディテの3女神が誰が一番美しいかの審判をトロイの町の王子パリスに頼みました。3女神はパリスを買収しようとして、アテナは戦いの勝利を、ヘラは最高の権力を、アフロディテは絶世の美女を与えることを約束したのです。その結果、パリスは絶世の美女を得たいがためにアフロディテが最も美しいとの審判を下しました。

アフロディテは約束どおり、絶世の美女ギリシャの都市国家スパルタの美しき王妃ヘレネをパリスに与えたのですが。当然王妃を奪われたスパルタは激怒し、妻へレナを奪回するための戦争が始まったのです。

この戦争は神々をも二分する争いとなり、不死身といわれたアキレスも唯一の弱点の足首をパリスに射抜かれて絶命。また、パリスも戦死。両者譲らず10年もの歳月が流れました。そしてついに、ギリシャ軍は、巨大な木馬を城壁の外に残し、攻略をあきらめ船で撤退を始めます。戦いが終わったことを素直に喜ぶトロイ軍は、木馬を場内に引き入れたのです。ところが、この木馬の中には兵士が潜んでいて、皆が寝静まった頃、トロイの町に火を放ち、ひそかに引き返していたギリシャ軍は、これを合図に城内になだれこみ、ついにトロイを攻め落としたのでした。こうしてトロイ戦争はギリシャ軍の勝利で終わり、ヘレネは無事にスパルタへ帰ることが出来たのです。これがホメロスが紀元前800年頃に書いた「イリアス」と「オデュッセイア」のトロイ戦争です。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に