1月


4日
アイザック・ニュートン

(1642〜1727)

「世間からどう思われているか知らないが、私は自分のことを、海岸をぶらつきながらきれいな小石や貝殻を見つけては喜んでいる少年に過ぎないと感じている。かたや真理の大海は、依然未知のまま私の前に横たわっている。」

イギリスの数学者、物理学者、天文学者

ロンドンの北、ランカシア州の農家に生まれました。幼い頃は機械いじりの好きな少年でした。ケンブリッジ大学で学んでいましたが、1665年ロンドンのペスト大流行で一時帰郷しています。

その一年半ほどの間に「万有引力」ついで「光の分析」「微積分法」のいわゆる3大発見の構想を得たと言われています。その後、ケンブリッジに帰り教授に就任し、光学研究では1668年「反射望遠鏡」を発明し、1675年「ニュートンリング」を発見、「光と色の新理論」を発表。力学、天文学研究では1687年自然哲学の数学的原理「プリンキピア」を発表。物理学の中に数学的方法を取り入れ、近代科学の祖といわれました。

そして、その思想と方法は自然科学だけでなく、哲学などにも大きな影響を与え、1668年名誉革命が起こると、ホイッグ党からおされ、翌年下院議員となり、1703年には王立協会会長として、行政的手腕を発揮しました。

一生結婚せず、神学への関心も深かったといわれています。
(ちなみに、彼の誕生日は、昔の暦を当てはめると12月25日だそうです。この当時新教国のイギリスはまだグレゴリウス暦を採用していないということです)
彼がリンカーンシャー州の生家の庭でりんごが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したという話は有名ですが、この逸話も、「ニュートンがいろいろ考えていたときにうまくりんごが落ち、それでうまく結びつけただけ」という話から、「その時はちょうど満月で、りんごは落ちるが月は何故落ちないかと考えたからだ」とか、「社交界の貴婦人にどういうことからあの法則を思いついたか質問され、真面目に学術的に説明していたが、さっぱり通じないので一言でわからせるために、りんごが樹から落ちるのを見て、という話を思いついた」などとさまざまな解釈がされているようです。
ちなみに、このりんごは、「ケントの花(華)」と呼ばれる品種で、120グラムほどの暗紅色で縞がある小さな果実だそうで、味は大変すっぱく、水分が抜けてボケやすく、今ではイギリスでも食されてはいないようです。

なんと、この品種には、風がなくても収穫前に落果する性質があるそうです。もし、これが落果しない品種のりんごであったら・・・歴史は変わっていたでしょうか?
その当時のリンゴの木は1814年に枯れましたが、枯れる前に接ぎ木で増やされ、その木は現在、生家の庭で大木となっているそうです。(イギリスではこれをニュートンピピン(NewtonPippin)と呼んでいるそうです)
このリンゴの木が、1964年、当時のイギリス国立物理学研究所長ゴードン・サザランド卿より、日本学士院長柴田雄治博士のもとへ1本の接ぎ木苗が、プレゼントとして送られました。
しかしその苗木は、ウイルスに犯されている疑いがあったため、隔離・検査され、あぶなく消却処分される所でした。しかし、専門家による長年の根気強い研究・治療が行われ、東京大学小石川植物園に植樹され、1981年に一般公開されました。これらの木からさらに増やされたニュートンの木の分身が、今では日本の各地にあるそうです。

1月


4日
ルイ・ブライユ

1809〜1852

「神さま、永遠に輝く希望を私の目に見せてくださったことを感謝します」

フランスの盲目の教育家

パリから40キロほど東のクーブレという村に生れました。彼が3歳の時、馬具職人だった父親の仕事場で遊んでいた時に、錐が彼の目に突きささり、その事故が元で目が見えなくなってしまいました。

しかし彼は、オルガニスト、チェリストとして才能を現し、周囲の援助もあって1819年、世界最初の盲学校といわれるパリの国立少年盲学校に入学することができました。

当時、パリ盲学校では、この学校の創設者バランタン・アユイが考案した、紙の上に文字を縦3インチほどに浮き彫りにした浮出文字が使われていましたが、この方法では、文章を読むことも難しく、ましてや、目の見えない人が文章を書くことは不可能でした。

そんなとき、フランスの砲兵大尉シャルル・バルビエが、軍隊の暗号通信用として暗闇の中でも指の触覚だけで読むことのできる文字を考え出したのです。それは、縦6点、横2点の合計12点で成る文字(点字)でした。バルビエは、これは目の見えない人の文字としても役立つのではないかと思い、バルビエは、この「夜間書法」と言う一種の暗号を、改良した「ソノグラフィー」を持って盲学校を訪ねたのでした。

バルビエの文字を手にした彼は、研究を重ね、欠点を改良し、1825年彼が15歳の時、ついに縦3点、横2点の読みやすい6点式の点字を作りあげたのです。この発明によって、目の不自由な人が文章をすらすらと読むことができたり、そのうえ、目の見えない人自身が文字を自由に書くことができるようになったのです。

その後も、彼は、彼は母校の教師をしながら改良を加え、数学用点字、音楽用記譜点字などを考案してゆきました。そして、1844年にようやく、学校での点字の使用が正式に認められたのですが、しかし、彼は肺結核にかかってしまい、1852年の1月6日に亡くなってしまったのです。彼の臨終の言葉は「神さま、永遠に輝く希望を私の目に見せてくださったことを感謝します」であったと伝えられていま
彼の死の2年後の1854年に、フランス政府は彼の考案した「ブライユ点字」を目の不自由な人のための文字として公式に認めました。その後、彼の考案した点字は世界各国の言語を表すように翻案されてゆきました。点字は英語ではブレイル(Braille)といいますが、これは考案者の名前に由来しているということです。
彼の考案した点字が、考案されてから20年もの間なかなか認められなかったのは、目の不自由な人のための特別な文字を認めることは、見える人と見えない人との間にかえって障壁を作ることになるという、先入観による抵抗が強かったからだと言われているそうです。
このブライユの点字が日本に紹介されたのは、明治13年頃で、これを東京盲学校の教員であった石川倉次が、6つの点で日本のかな文字48種を表すのに成功し、現在もこの点字が使われているそうです。


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