1月


2日
道元

(1200〜1253)

「人の悟りをうる、水に月の宿るが如し。
 月濡れず、水やぶれず。」

曹洞宗(禅宗)の開祖 鎌倉時代前期

内大臣久我通親の子として京都に生まれました、しかし3才で父、8才で母と死別し、世をはかなんで13才で比叡山(ひえいざん)にのぼり、翌年には髪をそって出家(しゅっけ)してしまいました。

ところが当時の比叡山は、彼の目には、時の権力者とむすんで俗世での名声や利欲をむさぼるという堕落した姿として映ったためか、失望した彼は山を下り、正法(正しい仏の教え)を求めて各地の寺をたずね歩くことになります。

そして、1223年24歳で明全と宋(中国)へ渡るのですが、彼の思いを満たしてくれる師は中国でも見つからず。帰国する寸前に、天童山(てんどうざん)で如浄(にょじょう)禅師と出会うことができたのです。彼はそこで、「只管打坐(しかんたざ)」(ただひたすらに坐る)というの教えだけを身につけて日本に戻りました。

京都深草に禅の堂を建てて布教し、後、越前(福井県)に大仏寺(のちの永平寺)を建て、ここを本拠として曹洞宗を広めました。後嵯峨上皇により紫衣を与えられたが、生涯身につけることはなかった。世間的な評判や利益を捨て、権力に近づかず、すべてを投げうって座禅することによって悟りに達することを説いたのです。

この地で彼は、ともに厳しい修行の生活つづけながら弟子を育成しましたが、1253年、病をえて、54歳の生涯をとじました

主著に95巻の大著「正法眼蔵」、「学道用心集」等があります。
「空手還郷」
中国にわたって修行してきた日本の僧は、中国でいかに多くの高僧の話を聞き、いかに多くのお経を日本に持ち帰るかが価値とされてきました。しかし、道元だけは、それを否定し、何も持たずに、空手で日本に帰りました。それは、すべてを知った者にとってお経は必要ではなく、本当の悟りさえ得ていれば、それをどのようにでも説明できるということなのでしょう。
曹洞宗
禅宗の五家七宗の一つで、中国で禅宗の六祖慧能の弟子青原行思の門下から起こった一宗。曹洞の名は、青原の法孫洞山良介とその弟子曹山本寂によるといい、また曹は慧能が曹渓で法を説いたことによるともいう。鎌倉時代に、道元が入宋して如浄禅師に禅法を受けて伝えた。福井県吉田郡永平寺町の永平寺と横浜市鶴見区鶴見の総持寺とを大本山とする。
「海は海であることを拒まないからこそ大海をなしているのである。
 山は山であることを拒まないからこそ高山をなしているのである。」


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