1月


1日
豊臣秀吉

(1536〜1598)

「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」

安土桃山時代の武将

尾張の中村(名古屋市中村区)で生まれました。生家は農家とも足軽(木下弥衛門)の子ともいわれています。木下籐吉郎と名のり、1558年(永禄元年)織田信長に仕え、才知と実行力で武功を立て1573年(天正元年)近江(滋賀県)長浜の城主となり羽柴秀吉と改名しました。

1582年(天正10年)中国の毛利氏と交戦中、信長の本能寺の変を知り、軍を返して明智光秀を山崎に破り、又、翌年柴田勝家、織田信孝を討ち、大坂城(大阪城)を築き全国統一の基盤を作りました。続いて徳川家康と戦いましたが和睦し、長宗我部氏(四国)島津(九州)北条氏(相模・神奈川県)を討ち、1590年天下統一を達成したのです。

その一方で、1583年には、大坂城を築き、85年に関白、翌年には太政大臣に進み、豊臣の姓を賜っています。また1587年のは聚楽第が完成し、10月には千利休とともに北野大茶湯を催して世間を驚かせました。

また、1582年ころから「太閤検地」と呼ばれる検地を行ない、また、1588年には武士以外の者から武器を取りあげる刀狩り令を発して兵農分離を徹底させて身分制度を確立しました。さらに貨幣の鋳造、関所の撤廃、商工業の発展を妨げる座を廃止して楽市楽座を促進し、豪商を保護して朱印船貿易にも意を注いで、商工業を盛んにし、桃山文化を生み出しました。

1592年及び97年と、2回に渡って朝鮮に出兵(文禄の役及び慶長の役)しましたが、水軍の不振や明の援軍、また朝鮮各地の義勇軍の活躍などで失敗に終わっています。2度にわたるこの戦役では、日本に利するところはなく、豊臣政権滅亡の原因ともなったといわれています。

晩年は、幼い秀頼の将来と豊臣の行く末をひたすら案じながら伏見城にて没しました。
その辞世の句は、
つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ 松
(露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢 秀吉)というものでした。
秀吉といえば「検地」と「刀狩」と学校で習いましたが、彼はこの政策によって兵農分離を徹底させて身分制度を確立し、完全に天下を統一したといっても良いのではないでしょうか。彼がこの政策をいかに大事に思っていたかが次の文章からもわかります。
検地の強行

浅野弾正少弼どのへ(「浅野家文書」

なぜ検地をするのかを、地方の武士や百姓が承知するように説得せよ。もしも検地に従わぬ者がいたら、城主であれば検地の責任者が相談して城に追い入れ一人残らず切りすてよ。百姓以下の時は、一村も二村もなく、ことごとくなで切りにせよ。全国にかたく命令しているのだから出羽奥州といっておろそかにしてはいけない。たとえば耕作者のいない土地となってもかまわないから、その意をくんで、山奥や遠い島々まで念を入れて全国土を検地せよ。もしなまけることがあれば関白自身が出向いてでも実行する。
天正18(1590)年
刀狩令(1588年)
一、諸国の百姓が、刀、脇ざし、弓、槍、鉄砲そのほか武具などを持つことをかたく禁止する。そのわけは、必要のない道具をたくわえて年貢やその他の税を出ししぶり、ついには一揆をくわだて、武士に対してよくないことをするからである。もちろんそのような連中は処罰されるが、そうなると、そのものの田畠は耕作されず、領主の年貢がその分だけ減るから、大名・武士・代官らは、これらの武具をすべて取り集めてさし出すようにせよ。
一、取り集めた刀や脇ざしなどは京都の方広寺の大仏の釘やかすがいに使う。
一、百姓は農具さえもって、耕作に専念しておれば、子子孫々まで安泰である。それはまた国土安全、万民快楽(けらく)の基(もとい)である。
解説
一揆を防ぎ、年貢を確実に納めさせるために、武器をもっていあた農民からいっさいの武器をとりあげさせた。これによって武士と農民はきびしく区別されることとなった。兵農分離の政策。
3.身分統制令(1591年)
一、奉公人・侍(上級武士)から中間・小物・あらし子(下級武士)にいたるまで、奥州出兵(1590年)になって以後に新しく町人・百姓になった者があれば、その土地の者か調べ、一切、身分を変えて住まわしてはならない。もし隠していたら町や村は処罰を加えられる。
一、各村々の百姓たちが田畑を捨てて、商売に賃仕事に出る者があれば、その者のことはもちろん村中が処罰される。また奉公もせず(武士でもなく)田畑も作らない(農民でもない)ものを、代官や小領主は、よく調べあげて、置いてはならない。
一、侍・小物によらず、主人に許しをえずに、出てくる者は一切、召しかかえてはいけない。(「小早川文書」)
解説
兵(武士)は商人や職人や農民になることと、主人を勝手にかえることはできないというもので、転職の禁止というよりも、身分の変更や主従関係の変更を禁止するものであった。さらに農民は農村にしばりつけられ、商人や職人は町にしばりつけられた。

1月


1日
ピエール・ド・クーベルタン

1863〜1937

フランスの教育家、近代オリンピックの創始者

フランスの名門の男爵一家の3男としてパリで生まれました。代々、軍人の家系であったため、サンシールの陸軍幼年学校に入学しましたが、やがて、フランスは戦争(普仏戦争)、に負け人々は希望を失ってしまいました。彼も失望の中、16才で学校をやめ、イギリスやアメリカに旅行に行ったのです。そこで彼は、スポーツ教育の重要性を実感し、スポーツこそが心身を健やかにすると気づいたのでした。

ちょうどそのころ、ドイツの学術隊がオリンピアの発掘に成功し、これによって古代オリンピック大会の様子が明らかになってきました。彼は、このオリンピック大会の復興に力を尽くそうと決心し、1892年にパリのソルボンヌ大学で「ルネッサンス・オリンピック」と題する講演を行い、古代ギリシャのオリンピックの復興を提唱したのでした。

当初は、誰も彼の意見を、まじめに考えてもくれませんでしたが、彼は、挫けることなく、世界中を回り、説得に努め、そしてついに1894年、パリで、オリンピックとして復活させる為に、12ヵ国 79名の代表者による国際オリンピック委員会(IOC)が結成され、その委員長となったのです。

そして、1896年にギリシャのアテネで第1回オリンピック大会を開催。その後もIOC会長としてオリンピックの発展と,運動の推進に一生を捧げました。

1937年、ジュネーブ郊外のオーニーブ公園を散歩中に心臓発作をおこし亡くなりました。74歳でした。
彼は、フランス国内におけるスポーツ振興及び五輪運動実現のために私財をすべて投じ(金貨で45万フラン)、晩年は極貧の中で暮らしたといわれています。
当初第1回大会は1900年にパリで開催と考えられていましたが、オリンピック熱の冷めないうちに古代オリンピック発祥の地アテネで開催することになったのです。


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