12月


31日
アンリ・マチス

(1869〜1954)

フランスの画家

北フランスのル・カトー・カンブレジに雑穀商の長男として生まれました。、パリに出て法律を学び、地元の法律事務所で働いていましたが。21歳の時に盲腸炎をこじらせ1年近く療養生活を送りました。その時母親から贈られた油彩具が絵画の世界に入るきっかけとなりました。

22才の頃から本格的に絵を学び1893年官立美術学校に入りモローに師事し、ここでルオーやマルケたちと知り合います。1905年のサロン・ドートンヌに出品した作品は世の注目を集め「野獣派」と呼ばれました。画風は強烈な原色と、形象を単純化することにより率直な表現をしているのが特色です。

モロッコやタヒチ島にも旅行し、晩年は更に色も形も単純化され磨きがかかり、後の抽象絵画などに大きな影響を与えました。1941年以降はヴァンスに定住し切り紙絵に打ち込み、又、彫刻、版画、詩集の挿絵を手がけた他、第2次大戦後に完成したヴァンス礼拝堂の装飾はすばらしい記念物となっています(建立に際し全構想を自ら行っています)1954年ニース郊外シミュにて亡くなりました。
1905年のサロン・ドートンヌマチス出展作品の「帽子の女」にたいして会場内のいたるところで、「こんな人間がいるものか!!」と轟々たる非難が沸き起こったそうです。

それに対し マチスはこう反論したという。
「道でこんな人に会おうものなら私だって逃げ出している・・・とにかく、私は女性を創造したわけではない私は絵を描いたのだ」
「私が絵を描き始めた頃一種の楽園へ運び込まれた気がした。
  毎日の生活の中で私はいつも退屈しだるい気分だった・・・
   絵を描き始めると私は光り輝いたように自由な気分になった。」
私が夢想するのは、いわば肉体的疲労をいやす座り心地のいいひじかけ椅子のようなものでありうる芸術である。
彼は生涯を通じて毎日大量のデッサンをトレーニングと称して行っていたそうです。

デッサンについては、こういう話があります。
むかしむかしのある恋人たちの物語。−ある日、男が戦場におもむくことになった。女は、別れを悲しんで、恋人の面影を忘れないようにと、ろうそくの炎で壁に映しだされた男の顔の輪郭を線でなぞり、思い出としたという

12月


31日
林芙美子(はやし ふみこ 本名 フミ子)

(1903〜1951)

「私は宿命的に放浪者である。」

昭和前期の小説家

九州下関市田中町に生まれました。(門司生まれとの説もあります)呉服の行商人である両親と各地を転々とし、少女期は転校続きで旅がふるさとの生活でした。12歳の時に尾道に行き、一家は海岸近くの「うずしお小路」に部屋を借りて生活を始めました。

それまでは各地を転々とし、あまり教育を受ける機会がありませんでしたが、ここ尾道小学校では優れた文才を発揮し、先生は彼女に女学校進学を強く勧め、苦手科目の補習までしてくださいました。その結果、彼女は尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学することができ、夜は帆縫工場に勤めるなど苦学しながらも、無事卒業しました。

そのころ彼女は地元の文学青年と初恋を経験していました。しかし、その彼は大学進学で上京してしまいます。彼女は、その青年を追って、女学校を卒業するとすぐに上京したのですが、結局二人の恋は実らず、彼女は東京で、女給銭湯の下足番、露天商、出版社や株屋の事務員、毛糸店の売子等をしながらも作家をめざして頑張ることとなります。

彼女は、その時期の生活と思いを、ずっと雑記帳に記していました。彼女はその雑記帳をもとに小説を書き上げ、昭和5年7月に「放浪記」として発表しました。彼女の自伝小説というべき「放浪記」は記録的ベストセラーになり、彼女は華々しく文壇に登場したのでした。

彼女は、その後も庶民の人生をユーモアと詩情をまじえて書き続け、昭和23年には「晩菊」で女流文学賞を受賞しました。作品にはほかに、「清貧の書」「泣虫小僧」「浮雲」等があります。

昭和26年6月29日、「めし」を朝日新聞に連載中に、過労のため自宅でマッサージを受けている最中に、急性心臓発作で亡くなりました。48歳でした。


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