12月


29日
野口雨情(のぐち うじょう)本名 英吉

(1882〜1945)

「しゃぼん玉とんだ やねまでとんだ やねまでとんで こわれてきえた」

大正時代の詩人

多賀郡磯原村(現北茨城市)で廻船業を営む家の長子として生まれました。そのころ野口家は広大な山林田地を有し、回船問屋を営んでいたので奉公人も十数人おり、秋には年貢米が土蔵に一杯山積みされるほどの豪勢を極めており、彼はそのような名家のお坊ちゃんとして育てられました。

中学より東京で学び、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し坪内逍遥の指導を受けましたが、家業が傾いたために翌年には中退。明治36年には父量平が村長在職中に死亡したため、帰郷し家業を整理することになります。

その一方で明治38年には日本発の創作民話集である、処女詩集「枯草」を自費出版しましたが認められず、樺太に渡り、事業を起こし失敗、放浪するように各地でさまざまな仕事に就いています。

北海道では、石川啄木の同僚だったこともあり、その間も創作を続けていましたが無名のままでした。しかし、大正8年より童謡の詩を児童文芸雑誌に発表するようになり、又、民謡「枯れすすき」は中山晋平の作曲により「船頭小唄」となって一世を風靡し、以後は主に童謡において活躍し、北原白秋、西条八十と並び3大童謡、民謡詩人と称されるようになりました。

彼は「唱歌は歌わせるために作られたもの、童謡は歌われるために生まれたもの」とし、「巧利巧智に走らず、清新素朴な感情を詠ったもの」、特に郷土的童謡を主張し、「黄金虫」「シャボン玉」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」など、広く愛唱される歌を次々と書いていったのです。

昭和18年、全国をまわっていた彼は、突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになりましたが。そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開しましたが、昭和20年、家族に見守られながら亡くなりました。
昭和12年に日中戦争が勃発すると、歌の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となり、放送の取締りがなされ、子供たちの歌も軍国主義化され、童謡は締め出されていきました。しかし、彼は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったので、その活躍の場も次第に狭まっていきました。それでも彼の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もしたといわれています。
郷里で山林農場の管理などにあたっていたころの彼は、山へ出かける時はモンペに頬かぶり、腰に山刀といういでたちで、すっかりその仕事の人物になりきって飾るところもなかったといわれています。
おれは河原の 枯れすすき / 同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では / 花の咲かない 枯れすすき

死ぬも生きるも ねーお前 / 水の流れに 何に変わろ
おれもお前も 利根川の / 船の船頭で 暮らさうよ

枯れた 真菰に 照らしてる / 潮来出島の お月さん
わたしやこれから 利根川の / 船の船頭で暮らすのよ

なぜに冷たい 吹く風が / 枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出たときは / 汲んでお呉れよ お月さん

どうせ二人は この世では / 花の咲かない 枯れすすき
水の枕に 利根川の / 船の船頭で暮らさうよ


(船頭小唄)
シャボン玉     「しゃぼん玉とんだ やねまでとんだ やねまでとんで こわれてきえた」
あの町この町   「あの町 この町 日が暮れる 日が暮れる 今きたこの道 かえりゃんせ かえりゃんせ」
兎のダンス     「ソソラソラソラ うさぎのダンス」
こがね虫      「こがね虫は 金持ちだ 金ぐらたてた くらたてた」
證城寺の狸囃子  「證(しょう) 證 證城寺 證城寺の庭は ツン ツン 月夜だ みんな出て来い来い来い」


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