12月


27日
ヨハネス・ケプラー

(1571〜1630)

「惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を描いて公転している。」

ドイツの天文学者

南ドイツのビュルテムベルクの貧しい家に生まれました。病弱で13才まで教育を受けず、この年から、公費でアデルスブルグ僧院付属学校に入学しました。

高校を経て神学者になろうとチュービンゲン大学で哲学を学びました天文学に興味を持ち、卒業後グラーツ大学で数学と天文学を教える傍ら、暦の編集にあたり「宇宙の神秘」を著し、ガリレオやチコ・ブラーエに知られるようになりました。

しかし1599年、新教徒迫害のため、グラーツを追われ、1600年プラハでブラーエの助手となります。ブラーエの死後精密、広範な観測記録を整理、惑星(とくに火星)の運動の研究に取り組みました。

その後1609年に出版した「新天文学」でケプラーの第1法則と第2法則を発表。1612年ルドルフ2世が没すると援助は打ち切られてしまいましたが、1619年に出版した「世界の調和」で第3法則を発表しました。

彼は、リンツに移り自分の発見した3法則を使って計算し、1625年新しい惑星表「ルドルフ表」をつくりしました。30年戦争のため出版が遅れ、1627年ウルムに移ってようやく出版されました。この表は惑星位置推算表として100年以上にわたって世界中で使われました。また、今日ケプラー式といわれる接眼レンズに凸レンズを使用する望遠鏡を考案しています。

しかし彼は、このような偉大な発見をしたにもかかわらず、ほとんど認められることはありませんでした。さらにはプロテスタントに対する迫害をうけて、野たれ死に同然に悲劇的な生涯を終えたそうです。
ケプラーの法則の真価は,その後50年以上たって、アイザック・ニュートンによってはじめて認めらました。ニュートンは、「もし、ケプラーの法則がなかったら、自分の万有引力の法則もなかった」と言ったといわれています。

ケプラーの法則

第1法則/惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を描いて公転している。
第2法則/惑星と太陽を結ぶ直線は一定時間に一定の面積を描く。
第3法則/惑星と太陽の平均距離の3乗は惑星の公転周期2乗に比例する。(太陽から遠い惑星ほど一周するのに時間がかかる)
インターネットで見つけたお話なのですが、ケプラーには母親が魔女の疑いを受けて数年にわたる裁判となり、一時期、監獄に入れられていたという話があるそうです。最後には裁判に勝ち、無罪となったそうですが、母親はそれがもとで間もなく亡くなってしまったということです。彼が生きていたのはそういう時代だったのですね。

12月


27日
ルイ・パスツール

1822〜1895

「私の研究は金儲けではなく、学問そのもののための研究であり、
               人類の幸福を増進することが私の願望だ。」

フランスの化学者、細菌学者、近代微生物学の祖

東フランスのドールという小さな町の皮職人の息子として生まれました。彼は大人しい目立たない子供でしたが、本が大好きで、読書中はすぐそばで何が起こっても気が付かないほどだったそうです。

彼はパリの高等師範学校卒業後も大学の化学研究室に残って実験や研究をつづけ、まず、ぶどう酸の研究で名をあげ、27歳でストラスブール大学教授となり、大学の学長の長女マリーと結婚しています。そして、32歳の若さで、リール理科大学の部長となりました。

ここで、彼は地元の人たちからビールやワイン醸造時の異常発酵について調査を頼まれ、発酵が、微生物によって引き起こされることを突き止めたのでした。このことから、彼は微生物について研究を始め、有名な「白鳥の首フラスコ」による実験で微生物自然発生説を否定し乳酸菌を発見し、ブドウ酒の腐敗防止法(低温殺菌)、カイコの原因不明の病気の病原菌の発見等の多くの発見を行いました。

しかし、彼は46歳の時、過労がたたったのか脳出血に見舞われて左半身が不自由になってしまいました。しかし、彼は不自由な体で研究を続け、ニワトリのコレラの研究でワクチンを開発、さらに研究を進めて狂犬病ワクチンを完成し狂犬病の予防に成功しました。

そして、彼の業績をたたえて、パリにパスツール研究所が建設され、彼は所長となりました。この研究所では微生物学、血清学、生物化学などの研究が行われ、現在でも世界で最も権威のある研究所の一つとして有名です。

彼はその生涯を、人々の幸福のためにささげ1895年9月28日に亡くなりました。72歳でした。
狂犬病の予防接種で、最初に命を助けられた9歳の少年は、彼に感謝して一生パスツール研究所の門番を勤めたそうです。
彼は低温殺菌方を発見した時に「私の発見が多くの人の役にたてばそれでよい。特許をとって自分の金もうけを考えるのは、科学者の恥である」とこの殺菌法に特許をとりませんでした。また、ワクチンの発見によって国からの勲章をもらう時も、彼は助手がいたからこそ、この発明ができたのだと、二人の助手も勲章が受章できるように請願しています。その彼が亡くなる2年前の70歳の誕生日で言った言葉は「人間は、死ぬときに、自分は、できるかぎりのことはしたと自信をもっていえるような、生きかたをしなければだめですよ」であったそうです。


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