12月


26日
徳川家康

(1542〜1616)

「人の一生は重荷を負うて遠き路をゆくが如し、急ぐべからず。」

三河(愛知県)岡崎城主松平広忠の長男として生まれました。当時、松平氏は東の今川義元、西の織田信秀に三河をくるみ割りにされ滅亡の危機に瀕していた。そして、この危機を打開するために広忠は、今川氏の支援を受けて織田氏と対決しようとしていました。そのために、駿府に彼を人質として差し出されなければなりませんでした。まだ幼名竹千代と呼ばれていたころでした。そして、足かけ12年の不遇な人質生活をおくりました。

しかし、1560年桶狭間の戦いで今川義元が戦死してから岡崎に帰り独立、信長と組んで各地で戦い、武田信玄には苦しめられるが、1582年武田氏を滅亡に追いつめ、同年本能寺の変の混乱に乗じて、5カ国を領する大大名となりました。

信長の死後は秀吉と対立し、小牧長久手で戦いましたが講和して、以後秀吉に臣従するようになります。1590年、小田原攻めの後、秀吉の転封命令に従い、江戸城を本拠にします。

秀吉の死後は、秀頼の傅役(もりやく)利家と一触即発の危機を迎えますが家康は自重、利家の死を待ってたかのように関ヶ原の合戦を制し、1603年征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。

2年後将軍職を子の秀忠にゆずり大御所として75才まで実権を握り、大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし幕府の基礎を固め、内政では封建制度の確立、対外的には、貿易は奨励したがキリシタンを禁じています。死後1636年「日光東照宮」に神として祭られています。
徳川家康は、三方ヶ原の戦いで、かの最強の騎馬軍団をもつ武田信玄と戦いましたが。この戦いで武田信玄の大軍の前に総くずれとなり、徳川軍は、必死の思いで浜松城に逃げもどります。その途中で死の直前にさらされた家康は、おもわず脱糞してしまいました。家臣の「殿なにか落とされましたぞ」の言葉に家康は「焼きミソじゃ!」と答えたといわれています。
(焼き味噌はいくさの時に持っていく食料。)
長篠合戦の際、敵将武田勝頼は、長篠城から重囲をくぐり抜けて信長のもとへ援軍の要請をしに行った鳥居強右衛門を、その帰りに捕らえて磔にしてしまいました。

家康はこれを聞き、「勝頼は大将の器ではない。なぜなら、勇士の使い方を知らない。鳥居のような豪の者は、敵であっても命を助けて、その志を賞してやるべきである。これは味方に忠義ということがどういうものかを教える一助になるのだ。自分の主君に対して忠義をつくす士を憎いといって磔にかけるということがあるか。いまに見ていよ。勝頼が武運尽きて滅亡するときは、譜代恩顧の士も心変わりして敵となるであろうから。あさましいことだ」と本気で軽蔑したといわれています。

そして、武田勝頼の運命は実際この言葉通りの結果となった。
奥州九戸で一揆(九戸政実の乱)が起こったときのこと。

家康は武州岩附(現・埼玉県岩槻)の城まで出陣し、井伊直政に「その方は軍装整い次第出陣し、蒲生・浅野と協力して九戸の軍事を計れ」と命じましたた。
そのとき、本多正信は家康の前に出て「直政は当家の大切な執権ですから、このたびの討ち手は、まず彼よりも下の者をつかわされ、それがもし叶わないときこそ、直政をつかわされるのが妥当ではありますまいか」といったところ、家康は
「そのようなことは思慮のない者がすることである。わしの婿の北条氏直などがすることだ。なぜならば、最初に軽い者をつかわして埒が明かないからといって、また重い者をつかわせば、はじめに行った者は面目を失い、討ち死にするほかはない。そうすれば、理由もなく家臣を殺すことになり、まことに惜しいことではないか」と言ったといわれています。
またある時、家康はたくさんのハマグリを広間一杯に並べ、家臣達に「ここにある貝殻はいくつ有るか、当ててみなさい」と尋ねました。
家臣達は思う付くままに、500個ぐらいだの、1000個以上はあるだの答えたが、実際にはハマグリは300個しかなかったのだ。その様子を見ていた家康は家臣達に向かって、「300個のハマグリを見て、500個だの1000個以上だのというようでは、合戦での敵の数はどれほど多く見えることか」と言ったといわれています。

12月


26日
菊池寛(きくちかん) 本名 寛(ひろし)

(1888〜1948)

大正、昭和前期の小説家、劇作家

香川県高松市に生まれました。生家は貧しく、小学校の上級の時は、教科書を買ってもらえなかったために、友達から教科書を借りて、それを写して授業に出たと言われています。

15歳の頃から、半紙をつづり合わせて帳面を作り、それに小説を書き始めました。小学校時代から読書欲は旺盛で、高松中学校に入ると、日曜日には必ず図書館に通いなんと市立図書館の蔵書2万冊のうち、中学生の読みこなせるものを全部読破したといいわれています。

その後、京都大学英文科に進学し図書館の演劇関係の蔵書を耽読し、劇作家の基礎をかためると共に、一高時代の旧友芥川龍之介、久米正雄らと第3次、第4次「新思潮」を発刊しています。卒業後は、戯曲「父帰る」を発表し、そして「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」などの小説を次々に発表して認められてゆきました。また、新聞にも「真珠夫人」を連載し大いに活躍しました。

また、大正12年には雑誌「文芸春秋」を創刊、文芸春秋社を一躍大出版社へと育て上げ、昭和10年には芥川賞、直木賞を、昭和14年には菊池寛賞を設定して文学の発展に尽くしました。

戦時中は従軍作家として中国戦線を巡り「西住戦車長伝」などを発表していましたが、これらの著作と社会的活動のため、戦後47年にGHQから公職追放処分を受け、解除を見ないまま昭和23年3月6日持病の狭心症のため亡くなりました。60歳でした。
彼が創設した芥川賞・直木賞は、なんと、当初は「文藝春秋」の部数の下がる2月・2月対策として、企画されたということです。
今年、彼の「真珠夫人」が非常に話題となりました。そのおかげで、全集にしか入っていなかった「真珠夫人」が文庫として発売されるなど、ひそかな「菊池寛」ブームが起きているということです。

TVドラマ真珠夫人のホームページです。全話のあらすじも載っていますので、見逃した方はどうぞ。
http://www.fujitv.co.jp/jp/b_hp/shinju/
彼は中学卒業後、授業料免除の東京高等師範学校に入学したのですが、厳格な校風になじめず(遊びまわっていたと言う話もあります)に除籍となり。その後、第一高等学校に入学しています。このときの彼の同級生には芥川龍之介、土屋文明、久米正雄、山本有三達がいました。その影響もあって、彼も文学の道を志すようになるのですが、卒業を目前にして、友達の佐野文夫(後の日本共産党委員長)のマント窃盗事件の罪をかぶって自ら退学してしまいます。しかし、彼の親友の成瀬正一が親を説得し、学資援助を受けることになり、無事改めて無事京都大学英文科に進学したということです。


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