12月


25日
モーリス・ユトリロ

(1883〜1955)

「静謐でもの悲しいユトリロの絵と大胆で激しい母ヴァラドンの絵」

フランスの画家

パリに生まれました。オベルヴィリエの小学校を優秀な成績で卒業しましたが、徐々に、孤独と酒癖にさいなまれ、中学時代にアルコール中毒で入院し、その対症療法として絵を描き始め、ほとんど独学でパリの街角などを数多く描いています。

作品はほとんどが風景画で、写生時代、印象派時代、白の時代、多彩時代(薔薇の時代)の四つの時代に分けられています。
初期の「モンマニー時代」の作品は抑制された色彩で、時に絵の具を厚く塗ったマチエールを見せる風景画です。

1910年から15年頃はその中で最も高い評価を受けている「白の時代」です。街路や教会の壁等を微妙な色合いを含んだ白で塗り、古いパリの町並みをメランコリックに、詩情豊かにうたいあげました。

生活は酒におぼれて、すさんでいたにもかかわらず、その後明るい色彩を用いた華やかな「薔薇の時代」を経て同時代の芸術動向とは無縁のまま強い純粋な感覚で独自の画境を確立し大成しました。1928年にレジオン・ドヌール勲章を受章しています。

一方、アルコール中毒は治らず、何度となく入退院をくりかえし、1955年に療養で訪れたダックスで倒れ、71年間の生涯を終えました。
彼の母シュザンヌ・ヴァラドンも、私生児として生まれ、母と一緒に田舎を追われるように出て、モンマルトルに住み着いたのでした。生活のためにお針子やサーカスの曲芸師も経験しますが、その後、職業モデルとして、ルノアールや彫刻家バルトロメのモデルを務めました。

そして、多くの芸術家と恋多き人生を歩むことになり、同時に、画家としての才能も開花させ、ドガを中心とした作家たちの援助で名声を得ていきました。

そして彼女もまた18歳で、私生児を生むのです。子供を母に預け、芸術家との交際を楽しみ、生活の糧ともしていましたが。残された子どもは、神経質で病弱になり、母のいない寂しさをかんしゃくを爆発させることで紛らわせたといいます。

子どもが出来てからも彼女は恋をし続け、多くの男性とつきあい、息子(ユトリロ)の生活はますます荒れ、アルコール依存症で入退院を繰り返すのでした。そこで、医師の「何にも関心がないようだが、何かに興味を持たせなくては。」という助言と母の説得もあって、対症療法として、ユトリロは絵筆を握るようになったということです。
彼は年下の親友アンドレ・ユッテルと一緒に、絵を描きに出かけることが唯一の気休めでした。しかし、そのユッテルも後年、ヴァラドンの愛人となり、ユトリロの継父となるのです・・・。
彼の母の絵に「モーリス・ユトリロの肖像」と題する絵があります。その絵で彼女は、酔っぱらいの息子ではなく、精悍に対象を見つめ、精力的に絵筆を運ぶユトリロを描いています。それは、母が息子にこうあってほしいと願う理想の姿で。母親の優しいまなざしに溢れているということです。
クリスマスといえば「イエス・キリストの生誕の日。だからこの日にお祝いするんだ」と一般にはいわれていますが、よくよく調べてみると、じつは、そうではないという説の方が多いのです。

また、聖書にはクリスマスという言葉は出てきませんが、イエスの降誕は最も重要な出来事として、新約聖書の4つの福音書にその場面が描かれています。しかし、その場面には次のような言葉があるのです。

「さて、この地方で羊飼い達が夜、野宿しながら羊の番をしていた(8節)」

これを考えてみると、羊飼いがパレスチナで野宿できるのは3或いは4月から11月頃までであると言うことなので、少なくとも季節的には「冬」ではないということになってしまいます。

それでは、なぜ12月25日になったのでしょうか。これにも多くの説があるのですが、ローマはキリスト教が伝わる以前から、ミトラ教(太陽神を崇拝する宗教)の影響を受け、冬至を祝っていました。この日が太陽の誕生日と考えたのです。人々がキリストを受け入れた後は、イエス=真の太陽(神)として、この日をイエスの誕生日として祝うようになったというのです。

また、皆さんが飾っているクリスマスツリーも、元を正せば、他宗教の影響によるものだということです。

では、何日が誕生日なのでしょうか、実は、1月2日、1月6日、4月18日、4月19日などなど、いろいろな日があげられているのですが、どれも決定的な証拠がないということなのです。


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