12月


23日
アンリ・ファーブル

(1823〜1915)

「昆虫という、もっとも小さいものの中に、最大の驚きがかくされている」

フランスの昆虫学者

南フランス、サンレオンの貧しい農家に生まれました。父親の仕事は失敗の連続で、恵まれない少年時代を過ごし、14才で浮浪児になるのですが、その間も勉強を続け奨学金を得て苦労して師範学校を卒業しました。

最初は小学校に勤め、その後、独学で数学、物理学、自然科学の学位を取ったのですが、大学教授の職につくことはできませんでした。

その後。コルシカの中学、アヴィニヨンの高校で物理等を教え、貧しい生活を支える中で、彼は1854年の冬、レオン・デュフールの書いた、ハチの生態に関する論文を読み、感動して30歳にして本格的な昆虫研究をはじめるのでした。

そして、妻子を養うために教職を続けながらも、地道な努力と情熱で昆虫に関する多くの論文を発表しましたが、正規の教育を受けていないということで学者たちからは冷遇されていました。

彼は、1879年以降、セリニャンという小さな村に移り、庭付きの家で文筆活動に専念します。そして30年もの間深い愛情を込めて昆虫を観察し、昆虫の生活、本能、習性を研究し、優しく美しい文章で、「昆虫記」10巻を書いたのです。

しかし、出版当時はほとんど売れず、彼の生活は甚だしく困窮していました。これを見かねた弟子や文学者たちが、昆虫記の第10巻が出版された1910年、ファーブルの業績を称える会を催してくれました。これ以降ファーブルの名が広く知られるようになったということです。

有名になっても、彼は90才になるまで野や山で観察を続けました。「昆虫記」は11巻の途中でかけなくなり、92歳で生涯を閉じました。
当時のフランス人の常としてたいへんなドイツ嫌いであった彼は、ドイツ側の丁寧な申し出にもかかわらず「昆虫記」のドイツ語訳を最期まで認めなかったというエピソードも残っています。
44歳のとき、ファーブルは、公開講義中に女性の前でおしべとめしべの話をしたのが不埒であるという今からみれば愚にもつかない理由で、薄給の師範学校の助教授職を追われています。
また、ファーブルは非常に頑固で、公的な年金や研究奨励金を除けば、生涯他人の援助を求めなかった人でした。 晩年にわかに「昆虫記」が注目され、ファーブルの元には彼の困窮を知った人々からの多額の寄付金が寄せられますが、ファーブルはいちいちそれを寄付者に返金し、匿名の寄付金については村の救貧施設に寄付してしまっています。
 借金を申し込んだ相手は、英国人ジョン・スチュアート・ミルでした。借金を申し込まれた当時、ミルは帰国してロンドンにいました。彼は3000フランという望外の大金(教師としてのファーブルの年収は数百フランといった程度)を送金して、ファーブルを大感激させました。
 律儀なファーブルは、自分の本の印税で少しづつ借金を返し、最後は出版社に印税を前借りして完済したそうです。

12月


23日
リチャード・アークライトRichard Arkwright)

1732〜1792

イギリスの紡績機械の発明者


ランカシャー州プレストンで生まれました。彼の家は貧しくて教育も受けられなかったので、少年のときから理髪師(かつら師)のもとで働き、1750年頃、故郷を離れ理髪師として開業しました。

当時、羊毛や錦を糸車にかけて糸を引き出す紡績という仕事は、布をつくる工程の中でもっとも時間のかかるものでした。彼は、この紡績機械に興味を持ちましたが、彼には学問もなく、紡績機械製造の技術的経験はありませんでした。しかし、彼はお客との会話を通して、多くのことを学んでゆきながら、紡績機の研究を続けました。

そして、ついに、当時使われていたサクソニー紬車にワイアット・ポール機を組み合わせて水力で動かすようにした能率の良い紡績機を製作することに成功したのです。

彼は研究の途中で、紡績機の研究をしていることが、近所の人びとに気づかれ出したので、大急ぎでノッティンガムへと引越しをしています。これは、彼の先輩達、楽に布が織れるように飛杼を発明した、ジョン・ケイや、多軸紡績機を発明したハーグリーヴズ達が、職を機械に奪われることを恐れた職人や労働者達によって家を襲われ機械を壊され散々な目にあっていたからでした。

彼の製作した、水力紡績機は、紡ぐ速度が早いだけではなく、熟練した紡糸工よりも、強伸度のはるかに高い糸を製造することができ、品質もすぐれていたのです。また、それまでの、亜麻と綿の交織物の代わりに、厳密な意味での綿織物が大量に生産されるようになったのです。

彼は、その後紡績工場を各地に次々と建てましたが、中でもランカシアの工場はイギリス最大の紡績工場になりました。彼が、イギリスの産業革命に尽くした功績は大きいとされています。
彼の前には多くの先駆者がいましたが、いずれも、このような便利なものができては仕事がなくなるのではないかとおそれた職人や労働者達によって家を襲われ機械を壊されてしまい、多くの発明家達が貧困・不遇な生涯を送っています。彼の工場も例外ではなく、彼が建設した工場も焼き討ちをかけられて焼失してしまったことがあるそうです。

彼の主要な発明がどのように行われたかは全くの謎に包まれているため、彼のことを、18世紀における他人の発明の最大の泥棒だったという人までいるそうです。


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