12月


22日
ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)

「劇場のために作曲することを神から命じられた」

イタリアの作曲家

ルッカの大聖堂オルガニストというプッチーニ家の5代目として生まれました。14歳のとき教会のオルガニストとなり、宗教音楽家としての道を歩もうとしていたのですが、18歳のとき、ピサでヴェルディの「アイーダ」が上演された時に、オペラを見るためにルッカから徒歩で往復し、それ以後ヴェルディに心酔してオペラ作家としての道を決めることになります。

ミラノ音楽院に入学し、ポンキエリに師事して、マスカーニとも交わっています。出版社主催のオペラ「妖精ヴィッリ」の台本に曲を作り応募し、入賞は逃したのですが審査員の目にとまり、1884年に初演され大成功となります。その後「マノン・レスコー」「トスカ」等と次々に傑作を作りました。

1904年長崎に題材をとり、日本の旋律を随所に用いた名作「蝶々夫人」を発表します。しかし、初演は大失敗で、彼は1日で上演を打ち切り、その3ヶ月後、多くの部分を書きかえ再演し大好評を得ることに成功します。その後、アメリカを題材にした「西部の娘」他、数々の名作を残しています。喉頭癌のため65才で亡くなりました。

遺作となった「トゥーランドット」(中国が舞台)は未完成でしたが、弟子のアルファーノの手によって最後の二重唱が作曲され、1926年初演されました。プッチーニの作品は人情味豊かで美しいメロディーを持ち、又劇的効果にも優れており、ベルディ以来最高のオペラ作曲家と言われています。
 「蝶々夫人」の初演の失敗を、彼は後にこう回想しているそうです。

私はその夜たたきのめされたような感じだった。しかし私の心のなかに決然とした反抗が湧き起こった。早速支配人と相談して連演を取り止めることとし、上演料の2万リラを返してしまった。その夜私はひとりでヴェルディ通りのアパートにひきこもり、死んでしまったようになっていた。翌朝目が覚めると、窓の下を「プッチーニのフィアスコ」と呼びながら新聞の売り子が通っていった。そんなわけでそれから2週間というものは、アパートから一歩も外へ出なかった。
彼は作曲中、何リットルものコーヒーを飲み、一日に数ダースものタバコを吸いながら五線譜と向き合っていたなどのエピソードが伝えられています。また、大の自動車マニアだった彼は、ひどい交通事故を起こして右鎖骨を骨折。何か月間もベッドに釘づけになり、この間に糖尿病が発見されたと言われています。
プッチーニといえば、蝶々夫人というほど有名ですね。じつは設定では、彼女は15歳。オペラのせりふの中でもはっきり15歳と言っているのですが、演出によっては道徳上の問題で、勝手に19歳とすることがあるそうです。
「蝶々夫人」あらすじ
明治時代の長崎。アメリカの海軍中尉ピンカートンは、乗艦のエイブラハム・ リンカ ーン号が長崎に寄港した機会に、結婚仲介業のゴローの口ききで芸者だった蝶々さんを 身請け する。ピンカートンとアメリカの領事シャープレスが待つ家に花嫁姿の蝶々さんが登場。彼女は15歳 である。蝶々さんは裕福な家の出であったが、没落して芸者になった身の上を語る。結婚式が済んだ後、 2人だけの甘い二重唱を歌う。

3年がたち、蝶々さんは一人息子を育てながら、本国に帰った夫の帰りを待っている。女中のスズキ は、そんな蝶々さんの一途な愛を知り心を痛める。残りの生活費も底をつく毎日。それを知ったゴロー は、新しい旦那に金持ちのヤマドリ公を紹介しようとする が蝶々さんに追い返される。そんな時、遠 くから大砲が聞こえ、エイブラハム・リンカーン号が港に入ってくる。
 蝶々さんは喜び、部屋に花をまいてピンカートンを待つ。翌日、ピンカートンが姿を現すが、アメリ カ人の妻を連れていた。それを見たスズキは蝶々さんが3年間ピンカート ンを待ち続けていたことを 語り、後悔したピンカートンは別れのアリアを歌ってその場 を立ち去る。

ピンカートンの妻ケイトがスズキに、蝶々さんの子供は私が育てることを伝えてほしいと頼んだとき、外の気配を察した蝶々さんが起きてきた。庭の光景を一目見て現実を察した蝶々さんは30分後にピンカートンが受け取りにくれば子供を渡すと約束して皆を送り出す。

蝶々さんの決意を知ったスズキは側から離れまいとするが主の強い命令には逆らえず退出する。その後、蝶々さんは父親が自決のときに使った短刀で喉を突いて果てる。

12月


22日
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)

1847〜1934

「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

海軍軍人

鹿児島の加治屋町に薩摩藩士の4男として生まれました。満15歳で参戦したのを最初に戊辰戦争にも従軍しています。明治維新後も海軍に入り、明治4年からイギリスに8年間留学して当時世界最強といわれたイギリス海軍について知識を深めました

その後帰国して、日清戦争では軍艦浪速の艦長として武名を上げ、明治36年には連合艦隊司令長官となりました。そして、翌年の日露戦争開戦とともに大将となり、明治37年5月の日本海海戦では三笠 に乗ってロシアのバルチック艦隊をやぶり、世界的な名声をえ、英国のネルソンと並び世界の三大堤督と言われるようになりました。

彼は対馬海峡からバルチック艦隊が姿を見せた時から、海戦終了時まで旗鑑「三笠」の艦橋の前面、つまり真正面に立ち、微動だにしなかったといわれています。

その後彼は元帥になり、晩年は東宮御学問所総裁などを務めましたが、一生政治に関係せず、聖将とたたえられました。昭和9年の死の前日に侯爵に叙せられ、5月30日に亡くなりました。
この日本海海戦において、バルチック艦隊は3分の2の艦船が沈み、降伏した艦船などをのぞくとウラジオストクにたどりついたのはわずか3隻。なんと5000名の死者と、6000名もの捕虜が出てしまいました。それに対して日本側の戦死者はわずか117名であったそうです。この戦いでロシア側は講和を結ばざるを得なくなり、日露戦争は日本側の勝利で終了し、明治38年9月に講和条約が調印されました。
それまでロシアに散々なめにあわされていたフィンランドは、日本海海戦で日本が勝利したことに喜び「東郷ビール」まで出して東郷平八郎を敬愛するようになったそうです。

と信じている人が多いのですが(実は私もそうでした(^^ゞ) 本当はフィンランドには「東郷ビール」そのものは無いそうで「アミラーリ」(提督)というビールの中の一つが東郷元帥で、理由も異なっているそうです。

この件について、詳細を知りたい方は こちらのサイトへ。 完璧といって良いほどきっちりとまとまっています。(もし、何処を見たらよいかわからない場合はこちら。) (情報提供 在芬邦人様 )
彼は、日本海海戦の大勝利の後、「海軍力の大切さ、平時の心構え、更に技術の進歩を常に図っておかなければならない。」との訓辞をしましたが、日本人はこの訓示を理解せず彼を神格化して拝むことで満足していました。しかし、アメリカの大統領であったルーズベルトはこの訓示に感銘を受けアメリカ海軍の近代化をはかったのです。その結果は・・・
東郷平八郎・連合艦隊解散式訓示

連合艦隊解散の訓示 二十ヶ月にわたった戦いも、すでに過去のこととなり、我が連合艦隊は今その任務を果たしてここに解散することになった。しかし艦隊は解散しても、そのために我が海軍軍人の務めや責任が軽減するということは決してない。

この戦争で収めた成果を永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには平時戦時の別なく、まずもって、外の守りに対し重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。

ところで、戦力というものは、ただ艦船兵器等有形のものや数だけで定まるものではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも左右される。百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような砲の百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実すなわち訓練に主点を置かなければならない。

この度、我が海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような戦果をもたらしたのである。もし過去の事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終わったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。

考えるに、武人の一生は戦いの連続であって、その責任は平時であれ戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。ことが起これば戦力を発揮するし、事がないときは戦力の涵養につとめ、ひたすらにその本分を尽くすことにある。過去一年半、あの風波と戦い、寒暑に耐え、たびたび強敵と相対して生死の間をさまよったことなどは、容易な業ではなかったけれども、考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し多くの知識を啓発することができたのは、武人としてこの上もない幸せであったというべきであり、どうして戦争で苦労したなどといえようか。

もし武人が太平に安心して目の前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえばたちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきである。

むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間我が国の支配下にあったけれども、ひとたび海軍が衰えるとたちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になり、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらってもこれに立ち向かうことができなかった。目を転じて西洋史をみると、十九世紀の初期、ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以降、後進が相次いでよくその武力を維持し世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができたのである。

考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは武人が平和なときにあっても、戦いを忘れないで備えを固くしているかどうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。

われ等戦後の軍人は深くこれらの実例を省察し、これまでの練磨のうえに戦時の体験を加え、さらに将来の進歩を図って時勢の発展におくれないように努めなければならない。そして常に聖論を奉体して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。神は平素ひたすら鍛練に努め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授けると同時に、一勝に満足し太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取り上げてしまうであろう。

昔のことわざにも教えている「勝って、兜の緒を締めよ」と。


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