12月


20日
北里 柴三郎(1852〜1931)

「研究だけをやっていたのでは駄目だ。
 それをどうやって世の中に役立てるか考えよ。」

医学者 細菌学者

熊本県に生まれました。明治4年、熊本の医学所に開校と同時に入学し、オランダ人のマンスフェントの下で明治7年まで勉強しました。マンスフェントに「東京には、医科大学がある。東京へ出て大学へ入れ、大学がすんだらヨーロッパで勉強せよ、世界の医学を学んでこそ、一人前の医学者である。」と励まされ、東京医学校(現東京大学医学部)に学び、32才で卒業後ドイツに留学、ローベルト・コッホのもとへ留学しました。

下宿と研究所を往復するだけと言われるほど研究熱心で、明治22年に破傷風菌の純粋培養に成功、その毒素をとり、それを元に行う血清療法をベーリングと共に発見。これを翌年、発表して世界の医学界を驚かせました。

帰国後、福沢諭吉らの援助によって伝染病研究所を創立し、後、北里研究所を作り、日本の伝染病研究の土台を築いた。又、ジフテリアの血清療法やペスト菌の発見、結核の研究等にも大きな功績があります。研究所には、志賀潔、秦佐八郎らの世界的細菌学者が集まり「世界の北里研究所」と言われました。

慶應義塾大学医学部の初代学部長、日本医師会初代会長などを歴任し。昭和6年、脳溢血のため亡くなりました。78歳でした。
ドイツから帰国して研究室すら用意されなかった柴三郎に、手を差し伸べたのが福沢諭吉でした。私財を投じ、日本初の伝染病研究所と結核専門病院「土筆(つくし)ケ岡養生園」をつくったのです。

ところが大正3年、政府は研究所を文部省に移管してしまいます。柴三郎は「研究所は研究のみでなく、予防から治療まで一貫して行うべきだ」と主張し、ただちに所長を辞任し、蓄財をはたき、行動を共にした研究所員を率いて北里研究所を創設するのでした。

「学問を実地に応用し、人類に福祉を与えてこそ学者の任務」というコッホの思想と、諭吉の「独立自尊」の精神がうかがえます。


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