12月


19日
エルウィン・フォン・ベルツ
 
(1849〜1913)

草津温泉を世界に紹介した「草津の恩人」

ドイツの医師

南ドイツのビーティッヒハイムに生まれました。ライプチヒ大学を卒業し、明治9年、日本政府の招きで来日、東京医学校(今の東京大学)で、生理学教師となり、以後26年間にわたり生理学、内科学、婦人科学を講義し、医学生の教育や治療を行いました。

又、日本人の人類学的、病理学的特徴を研究、脚気 (かっけ) やハンセン氏病、ツツガムシ病、肝臓ジストマなど、当時の日本に特有の病気についても研究し、日本医学の発展に尽力しています。

明治20年38歳の時、日本人女性、戸田花と結婚し、翌々年には長男の徳之助も誕生しています。明治23年には、明治天皇および皇太子嘉仁親王の侍医に就任しました。

東京帝国大学退職後は、宮内省御用掛として、明治天皇やその皇太子の主治医として侍医を務めた。

彼は日本風俗をよく理解し、当時の日本の社会を批判した有名な「ベルツの日記」を書いています。

また、温泉を使っての温泉療法を本格的に研究し提唱した、最初の人でもありました。彼は草津温泉を「日本の典型的温泉」とし、「草津には、無比の温泉のほかにも、日本で最上の山の空気と全く理想的な飲料水が有る。」と世界無比の高原温泉であることを世界に紹介し、日本の草津を世界水準に引き上げたのでした。 江の島の海水浴場が開かれたのも、彼によるところが大きいそうです。

明治38年、家族を連れて帰国、シュツットガルトに住み余生を人類学研究にあて、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務めました。
彼は26年間東京帝国大学医学部で教鞭をとった後、1901年に東大を去りました。送別会に日に「私たち外国人教師の使命は、日本に科学の樹を育てることでした。しかし日本人は、西洋の科学の木に育った実だけを、私たちから受け取ろうとしたのです。私たちの実を欲しがるだけで、この実をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。」と言っています
ベルツの日記
ドイツ人医学者ベルツの日本滞在中の日記で。外国人教師として日本で働いた彼の目から見た、当時の我が国の政治や社会を鋭く批判するとともに、政界の裏面に関する重要な資料となっています。

たとえば明治二十二年二月九日には

東京全市は、十一日の憲法発布をひかえて、その準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容を御存知ないのだ。

と、当時の日本の様子を伝えています
彼が草津温泉に冬期に滞在していた際に、旅館の女中たちが初期凍瘡(ヒビ、アカギレ)に苦しんでいる姿を目撃して、妻ハナコから「スキンケァはへちま水か馬の油ぐらいしか無く、日本中の女性が苦しんでいる」と知らされました。そこで彼は凍瘡治療薬を変方して「ベルツ水」を考案しました。植物油から「石鹸」の製造を指導し、その製造過程で生成されるグリセリン(保湿)と日本酒(殺菌:現在は消毒用エタノール)を主原料として、誰もが簡単に作れるものにして普及を計ったのです。


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