12月


18日
志賀 潔(しが きよし)

(1870〜1957)

「いくらお医者さんでも病人ばかり見ているのは嫌だから、人が病気にならない研究をしよう。」

細菌学者

仙台市で生まれました。中学卒業後、16歳で東京に出て、ドイツ学校(私塾)第一高等学校、東京大学医学部を卒業し、伝染病研究所に進み、卒業後は伝染病研究所にはいり、北里柴三郎の指導で、細菌学、免疫学の研究に励みました。

たまたま東京地方に赤痢が流行し、苦心して明治30年、赤痢の病原菌を発見しました。

明治34年、ドイツに留学し、エールリッヒについて、結核の化学療法を学び、帰国後研究所に戻り、結核、ハンセン氏病の予防、治療法を研究。結核菌生ワクチンを発表しました。

その後北里研究所の部長、京城大学総長などを歴任する。

昭和19年文化勲章を受章。昭和32年には勲一等瑞宝章を受章しています。

彼が発見した赤痢菌は、彼の名前にちなんで「シゲラ」と名付けられています。
赤痢菌はなんと、薬に対する耐性情報を共有することができるのだそうです。
その方法は、まず薬に対して耐性を得た菌(耐性菌)と薬に弱い菌(感性菌)がくっついて、そのすき間をトンネルで結び、そこを「プラスミド」という物質が暗号化した耐性遺伝子のコピーを持って行き、これを得た感性菌は暗号を解読して自らも耐性菌に変身するのだそうです。

さらに赤痢菌同志だけでなく気のあった他の細菌(大腸菌など)ともこの情報を惜しげもなく共有して、薬への耐性を持つようになるのです。

12月


18日
パウル・クレー (Klee,Paul)

1879年〜1940年

画家

スイスのベルン郊外で、音楽教師の父と、声楽家の母のあいだに、4人家族の長男として生まれました。4歳で祖母から絵を学び、7歳でバイオリンを始めました。そして、11歳でベルン市の管弦楽団にヴァイオリン奏者として参加しています。

各方面で天才的な才能を発揮した彼でしたが、最終的には美術の道を選択し、21歳でミュンヘン美術学校に入学し、銅版画やガラス絵の制作を始め、絵画グループ"青騎士"のメンバーとなり新しい絵画運動に参画しています。

その後、美術学校に入学の準備をしていた頃に知り合った医者の娘でピアニストのリリーと27歳のときに結婚し、翌年一人息子のフェリックスが生まれています。彼は、ピアノ教師の妻ととも家事と育児をこなすかたわら、絵画の勉強を進めてゆきました。

しかし、第1次世界大戦がはじまり、1916年にはドイツ軍に徴兵されてしまいます。彼は運良く後方支援に回されましたが、多くの仲間や友人がこの戦いで命を無くしていったのです。

戦争が終わり、敗戦国となったドイツでは1919年、芸術と産業(職人技術)を統合した美術工芸学校であるバウハウスが設立され、彼は友人カンディンスキーと共にここの教師に任命され、新しい絵画運動の一翼をになうことになります。

しかし、1933年ヒットラーがドイツ帝国首相に任命されると、彼の運命は大きく変わってしまいました。彼は政治的に危険と思われ、アトリエは捜索を受け、ナチスの激しい攻撃によって学校は閉鎖、デュッセルドルフのアカデミーの教授職も解雇されてしまいます。

そして、彼の作品は大量に各地の美術館から没収され、その一部は「退廃美術展」に展示されました

さらに、皮膚硬化症(進行性で命にも関わる病)も発症。ナチスによる迫害と病気に苦しめられながら続けた制作のなかで、彼の作品のモチーフはいっそう内面へ、死の意識をはらんだ世界へ向かったといわれています。

彼はナチスに嫌気がさしてスイスに拠点を移しスイスへの帰化の申請をおこないましたが、その手続きが終わらない1940年6月29日に亡くなりました。60歳でした。


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