12月


16日
尾崎紅葉(おざきこうよう) 本名 徳太郎

(1867〜1903)

十年後の今月今夜も、僕の涙で月は曇らせて見せる

明治時代の作家

東京芝で生まれました。父谷斎は根付彫の名人でした。3歳の時母が亡くなり、祖父、祖母の手で育てられました。幼時は岡鹿門に漢学を学び、三田英学塾などを経て大学予備門に入学し、その頃から文学に志し同窓の石橋思案ら6、7名と「文学会を」を起こしました。

明治18年丸岡九華、山田美妙らと「硯友社」を創立し機関紙「我楽多文庫」を創刊、「二人比丘尼色懺海」を発表して大いに世にもてはやされました。予備門を卒業して東京大学の法科に進みましたが、1年で文科に移り、それも1年で大学をやめ「硯友社」の盟主として活躍しました。

井原西鶴に心酔し「加羅枕」「三人妻」などの作品にその成果を現しましたが、その後傑作「多情多恨」を発表しその円熟した文言一致体は後代の文章の模範とされ、全盛時代を迎えた硯友社の頭領として文壇に君臨しました。その小説は、書き直しを繰り返し骨身をけずる思いで書き、言文一致というスタイルを作り出しました。

しかし、明治36年、胃癌で亡くなりました。37歳でした。彼は死にさいして「今死に候はば七生までも世に出でおもふ通りの文章を書き申さずては已まずと執着致居候」と書簡にしたためたそうです。

彼は日本語の不思議な美しさを文章にあらわし、その文学は弟子の泉鏡花に受け継がれました。鏡花のほかにも徳田秋声や小栗風葉達がその門下から出ています。
「金色夜叉」

「十年後の今月今夜も、僕の涙で月は曇らせて見せるから、月が曇ったらば、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると想ふが可い。」

熱海の海岸で、金に目がくらんだ婚約者鴫沢宮から、裏切られたことを知らされた間貫一が高利貸しとなって金権社会に復習しようとするのでした。

3年以上も新聞に連載され、一世の人気を集めていた「金色夜叉」は、彼の死によって未完となってしまいました。「金色夜叉」は、社会的写実小説の性格をもち、金権万能の資本主義社会を肯定せず、人間の愛情、友情、献身、社会主義の優位を訴えています。
「金色夜叉」の執筆が塩原で行われ,作中人物の間貫一が塩原に遊んだことや、大自然のすばらしさが文章に託されたが、その洗練された漢文調は塩原の風光を一層高めた名文でした。そして「金色夜叉」1987年(明治30年)世に出されると、当時の文学青年や一般に爆発的な人気を得、塩原は一躍全国に知られるようになりました。
塩原の場面は終結に向かう大事な場面で、塩原の宿(清琴楼)に着いた貫一は、言葉をつくしてその風景を賞賛しています。美しい塩原で心の平安を取り戻した貫一は、隣室で心中しようとする男女を助け、偶然にも二人から宮の不遇を聞かされた貫一は、帰京後、宮からの手紙に目を通すようになる。その宮からの切々たる長文のところで紅葉の筆は惜しくも中絶しているのでした。
「死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き」辞世の句

12月


16日
マーガレット.ミード (1901〜1978)アメリカ 女性文化人類学者

フィラデルフィア生まれ、バーナード大学を卒業し、コロンビア大学でボアズに師事し、1929年博士号を取得する。1960年アメリカ人類学会会長を務め1962年アメリカ自然博物館を経て、1969年フォーダム大学人類学教授となる。サモア等オセアニアの諸島で、エネルギッシュな現地調査を行い、人類学者としての地位を確立する。又、現代アメリカ人類学を特色づける。
「文化とパーソナリティー」分野の研究でも先駆的役割を果たす。著書「サモアの思春期」等。


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