12月


15日
アンリ・ベクレル(Henri Becquerel)

(1852〜1908)

フランスの物理学者

パリで生まれました。祖父も父も物理学者で、博物館の物理学の教授でした。パリ理工科大学に入学、その後、国立土木学校に進み土木技師となりました。そして、1892年祖父と父がその地位にあった国立自然史博物館教授となり、1895年理工科大学の教授を歴任するようになりました。

そして、その年の11月ドイツのレントゲンが、非常に透過力の強いものが放電管から発生していることに気がつきエックス線と名付けました。このニュースは瞬く間に世界中を駆けめぐり、多くの研究者がエックス線の研究に熱中しました。

彼も、その中の一人でした。彼は翌年、父から譲り受けた硫酸ウラニルに太陽光線をあててエックス線を発生させる実験を繰り返していたのですが。天気の悪い日が続いたため、実験が進まず、彼はしかたなく黒紙に包んだ写真乾板と硫酸ウラニルの鉱物を同じ引き出しに入れておいたところ、なんと、数日後、写真乾板は感光していたのです。

彼は、太陽の光が無くても硫酸ウラニル自身が自発的に写真乾板を黒くしてしまうもの(放射線)を放出していると考えました。これが、放射能の発見です。

そして、放射能の強度はウランの絶対量に比例していることを調べました。又、アルファ線のビームをアルミ箔に当てると進路が広がることを見いだしています。

その他にも、ファラデー効果、燐光、赤外線スペクトルの研究があります。

アルファ線の実験はラザフォードのアルファ線散乱実験の契機となり、又、ベクレルの研究はキュリー夫妻に受け継がれていきました。

1903年放射能の発見により、キュリー夫妻とともにノーベル物理学賞を受賞しています。
彼の名は放射能の壊変強度を表すSI単位に彼の名前が用いられています。
(1ベクレルは、放射性核種が一秒間に一つの割合で崩壊する放射能)

12月


15日
アレクサンドル・ギュスターブ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel)

(1832〜1923)

「鉄の魔術師」

構造エンジニア、エッフェル塔の設計者

フランスのディジョンで生まれました。エコール・ポリテクニクおよびエコール・サントラルに学び、当初は叔父の経営するカラシ会社で働く予定だったそうですが、結局は鉄道会社に就職しました。

初め鉄道橋を専門とし、ボルドーの鉄橋工事を皮切りに多くの架橋工事を成功させ、「鉄の魔術師」と呼ばれるようになります。その後も、彼は、風圧力を研究してすぐれた鉄骨構造法を開発し、ガラビの水道橋165mの谷間をかけ渡したり。「独立100年祭」の記念にフランスがアメリカに贈った「自由の女神」像の鉄骨を設計して一躍有名になりました。

ちょうどそのころ、フランスは革命100年目の1889年に第4回目のパリ博覧会を計画していました。そして、万博委員会はそのシンボルとして世界一の建物を提案したのです。委員会には巨大「ギロチン」など700もの案が提出されましたが、最後に残ったのが、彼の提案した「300メートルの鉄の塔」だったのです。

工期はわずか26ケ月、300人のとび職が、250万個にのぼるリベットを使って塔の組立てにあたり、しかも、これだけの大工事でありながら、死亡事故はゼロであったということです。鉄骨のみで作られたトラス構造によるこの塔は、当時の建築技術の最高水準を示すとともに、単純明快な近代建築の美的表現の先駆をなしたといわれています。

彼は、なんと、この塔の最上階に、なんと自分専用の書斎を作ってしまったのです。 彼は、毎日ここに来て、考え事をしたり、友人と歓談したりするとともに、風の研究や、気象観測を行い、また、塔の展望台からものを落下させて、物体に作用する空気の力を測定し、空気の力が落下速度の二乗に比例することを実証したりもしたということです。

彼は60歳を過ぎて建設業界から引退し、風の研究に取り組むようになります。彼は、風を吹かせる装置、つまり世界で初めての風洞を開発し、この装置によって、落下実験よりも精密に空気の力の測定し、発展し始めたばかりの飛行機の技術開発にきわめて大きな貢献をしました。今日でもプロペラの上流側で実験をする直線的な風洞を「エッフェル式風洞」と呼んでいるそうです。

彼は、引退後も30年余り風の研究を続け、1923年12月28日に亡くなりました。91歳でした。
今では、パリの象徴でもあるエッフェル塔ですが、建築当時はこの「300mの高さの塔」は、パリの美観を損ねると大勢の文化人や,芸術家から一斉攻撃を受け、市民も含め一大美観論争となりました。

当時の文豪のモーパッサンも醜悪であると非難、エッフェル塔が完成してからは、「この塔でランチを食べるのは最高。パリで唯一エッフェル塔が見えないところだからね」と言ったそうです。

しかし、パリ万博が始まると、この塔は大評判となり、正装して1652段の塔の鉄骨を上へ上る人が続出。その数は 600万人にもなったそうで、この入場料の収入だけで建築費の4分の3がまかなえたほどの大盛況だったそうです。
エッフェルは自分が設計した橋が微細な風で落橋したこともあって、風がいかに怖いかを知っていました。そのため、この塔は格子状にはりめぐらせた桁によって風の抵抗を最小限におさえ、かつ強度を出しているのです。そのため、最大級の強風時でも、登頂の揺れの振幅は12cmを超える事はないということです。
パリの万国博覧会のための記念碑のコンペで最後に残ったのが、架橋技師のエッフェルの設計と、電気技師のセビロの案でした。セビロの案は三六〇メートルの「太陽の塔」から、パリ市内をアーク灯で真昼のように照明しようとするものだったそうです。


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