12月


14日
ティコ・ブラーエ(TychoBrahe)

(1546〜1601)

天動説を支持し、地動説を否定した最後の天文学者。
  肉眼のみを使った最後の天体観測家。

デンマーク・天文学者

デンマークの大貴族の家に10人兄弟の二番目として生まれますが、子供が居なかった伯父のヨルゲンに3歳の時無理矢理奪われ、養子にされてしまいます。その後、政治家になるためにコペンハーゲンライプチッヒの大学に進学しましたが、予告された時間通りに部分日食が始まったことに驚いて、天文学に強い関心を持ち、その後天文学を志すようになります。

1576年、国王の使者がチコの家を訪れ、命令によりデンマークに帰国した彼に、国王は世界最高の天文台を作るよう命じ、それによって巨大な城のような観測所、ウラニボルグ天文台が建設されました。

まだこの時には天体望遠鏡は発明されていないため肉眼による観測でしたが、観測機械を改良して精密に位置を記録しました。そして、1577年カシオペア座のやや北西で地球に近づいた彗星の距離を測定し、彗星が天体であることを示しました。

観測の精度を上げるために、大型の装置を作成し、フレデリック2世の信頼を得てベン島に観測所を作り20年間精密な天体観測を行いました。しかし、フレデリック2世が亡くなり、王がクリスチャン4世になると天体観測は無用のものとされ、彼は放免されてしまいました。

その後、プラハの皇帝ルドルフ2世に招かれてプラハに移った彼は、ケプラーを見出し、死の直前に「自分の生涯が無駄にならないように」と遺言し、1601年に死去しました。

彼の死後、助手であったケプラーに譲り渡された膨大な観測記録は、やがてケプラーの法則発見へと発展するのでした。
彼の性格は、若い時から尊大で、20歳の時、数学の議論から口論に至った末の決闘で、なんと鼻をちょん切られてしまい、その後の人生を顔の真ん中に金銀細工の鼻をくっつけて過ごしたといわれています。
また、当時は天文学と占星術とは密接な関係にあり、ほとんど同じものだった、と言ってもいいぐらいでした。そのため、天体観測は神聖な占星術の一環であったので、彼は観測時には礼服を着用していたそうです。


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