12月


12日
福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)

1834〜1901

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり

明治期の啓蒙思想家。慶応義塾の創設者

九州の中津藩の下級武士の子として、大阪堂島の中津藩蔵屋敷に生まれました。父は有能な人でしたが、門閥(家柄)が優先される封建制度のもとでは、なかなか出世できませんでした。生後一年半で父の病死にあい、一家は郷里中津に帰ることになります。

中津では儒学を学びましたが、封建の門閥制度に矛盾を痛感した彼は、青年期に入るや、まず、学問の新天地を求めて長崎へ遊学その後、江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄った時、兄のすすめで緒方洪庵の適塾に入門しました。適塾では塾頭になるほどでした。

その後江戸へのぼって中津藩邸で蘭学塾を開き子弟の教育にあたるかたわら、英学を研究しました。1860年の勝海舟らによる幕府の遣米使節、翌年の遣欧使節の派遣の際には翻訳方として随行しています。

帰国後の1868年に慶応義塾を開き子弟の教育にあたりました。明治維新の時、新政府から再三出仕を勧められたが受けず、もっぱら民間にあって、慶應義塾の教育と、国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えませんでした。

明治初年から十年ごろまでのわが国開明の気運は、「学問のすゝめ」や「文明論之概略」などを通して、彼によって指導されたといってもよい。また明治十五年には「時事新報」を創刊して、新聞人としても多大な成功を収めました。さらに晩年の著作の「福翁自伝」は、日本人の自伝文学の最高峰として定評があります。

明治34年2月3日、数え年68歳で亡くなりました。
明治5年から9年にかけて出た「学問のすゝめ」の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名なくだりは初編の書き出し部分にあたり、この本は340万部も売れたといいます。
しかし彼はそのあとに「されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。」と述べ、学問の有無で人間の上下差が生じると言っています。ちょっと考えさせられますね。
彼が12、3才のころ、殿様の名の書かれた紙を踏み兄に怒られました。これに反発した諭吉は、神様の名のある「おふだ」をふみ、何ともなかったのをさいわいに、その「おふだ」を便所に捨ててしまいました。また他にも、 近所のお稲荷さんの社をのぞいたら、ただの石だったので、そのあたりの石と交換して人々がおがむのをおもしろがっていたといわれています。
門閥(もんばつ)制度は親の仇(かたき)でござる。」
これは『福翁(ふくおう)自伝』の中にある有名な言葉です。九州の中津藩の下級武士の子として生まれた福沢諭吉は、家が貧しくて身分上の差別をうけていました。父は有能な人でしたが、門閥(家柄)が優先される封建制度のもとでは、なかなか出世できませんでした。諭吉はそのような父の不遇を思い、「門閥制度は親の仇でござる」と封建社会のありかたを批判したのです。
福沢諭吉は1861年(慶應元年)に遣欧使節に翻訳方として加わり、渡欧。そのときに目にした最新技術に驚いた諭吉は特許制度の存在を知り、その普及の必要性に目覚めたといいます。
「世に新発明のことあらば、これよりて人間の洪益をなすことを挙げて言うべからず。ゆえに有益の物を発見したる者へは、官府より国法をもって若干の時限を定め、その間は発明によりて得るところの利潤を独りその発明者に付与し、もって人心を鼓舞する一助となせり。これを発明の免許(パテント)と名づく」
福沢は24才の時外国人がどんな生活をしているか見るために外国人がたくさん住んでいる横浜に行ってみた。そこで今まで勉強していたオランダ語を使って外国人と話をしてみたが、オランダ語が全く通じなかった。横浜で使われていた言語が英語だったからである。この時初めて英語が国際的に通用する言語だということが分かって、それ以来英語の勉強を始めたということです。

12月


12日
ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert)

1821〜1880

「ボヴァリー夫人は私だ」

フランスの小説家

北仏のルーアンに高名な外科医の次男として生まれました。秀才の兄と比べられながらも、幼少の頃から小説や、芝居の脚本を書いていましたが、両親の意志に従って、パリ大学法学部に進むことになります。

けれども、在学中も18歳のとき、神経の発作が持病となったことをきっかけとして学業をあきらめ、以後は文学に専念することになります。

父と妹の死後は、母と姪の三人でルーアン近郊の寒村クロワッセに落ち着き。取材やパリ文壇との関わり以外は母と共に別荘に引きこもり、生涯のほとんどすべてここで過ごしたといわれています。

1856年に発表された、彼の代表作「ボヴァリー夫人」は当初、風俗壊乱のかどで告発されましたが、無罪となり、やがてこの作品は高く評価されるようになり当代最高の小説家と呼ばれるようになります。

彼は、小説は人間の魂をうつす鏡と考え、簡潔で正確な文章と徹底的に主観を排した描写で写実主義文学を確立しました。

また、彼は友人の甥であったモーパッサンに作家修業を施し育てたことでも知られています。
ボヴァリー夫人
修道院で教育を受けた貞淑な娘エンマは実直な田舎医師シャルル・ボヴァリーと結婚して平穏な暮らしを送っていました。しかし、彼女は徐々に平凡な暮らしや夫に幻滅して行きます。そして、現実に不満を抱いたエンマは、多くの男性と不倫を続けて行くようになり、破滅へと向かっていくのでした。

彼は「ボヴァリー夫人」発刊によって起訴され法廷に立たされましたが、その場で「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったエピソードは有名ですね。


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