12月


11日
ロベルト・コッホ(Robert Koch)

炭疽菌の発見者

ドイツの医師。近代細菌学の開祖

ハノーバー近郊クラウシュタールで鉱山技師の子として生まれました。ゲッチンゲン大学卒業後、町医者となりました。1874年頃、ヨーロッパの農民たちを悩ませていた病気に炭疽(たんそ)病がありました。もともとはヒツジやウシなどの家畜がかかる病気でしたが、これらの動物と接した農民や、売買をする商人たちにも、腫れ物ができ、運の悪い人は肺炎のような症状で死んでいきました。

彼は妻からプレゼントされた顕微鏡で病気のヒツジやウシの血液を調べると、健康なヒツジやウシの血液中には無い小さい棒状をしたものを発見しました。彼はこの微生物の純粋培養を試み、「炭疽菌」を発見しました。そして、炭疽病が細菌によることを克明に証明した 「炭疽病の原因」 という論文を著し、一躍世界の注目を浴びることになります。そして、炭疽菌は、世界で初めて病気との関連が確認された細菌となったのです。

二年後には 「創傷感染症について」 という論文で敗血症の原因について論じ、この病因は細菌にあることを発表しました。さらに目に見えない病原菌の研究を続けた彼は、その4年後、当時世界で最もおそれられていた結核の病原菌を発見しました。それは、当時のヨーロッパで病死する人の7分の1をしめるという、恐ろしい病気でした。世界結核デー(3月24日)は、彼が結核菌の発見を発表した1882年のその日を記念しています。

1883年にインドで発生したコレラがエジプトへ侵入し、南ヨーロッパを襲ったときには。彼はインドへ向かい、コレラ菌を発見したのです。

これらの業績に対して、1905年にノーベル生理学医学賞を受けています。
炭疽菌は長さ8マイクロメートル(1000分の8ミリ)ほどの細長い細菌。栄養状態が悪くなったりすると、直径1−6マイクロメートルほどの胞子(ほうし)を作ります。胞子はかんそうすると空気中をただよいやすく、たくさん集まると白っぽい粉に見えます。
それまで結核、コレラ、ペストといった人類に大災害をもたらす流行病 (感染症) は、すべて臭くて悪い「気 (瘴気)」が原因だとされていました。香水などもは、ただ体臭を紛らすという消極的な意味だけではなく、この「瘴気」を防ぐという積極的な目的もあるそうです。しかし、このコッホの発見により、感染症にはそれぞれの病気を起こすある決まった病原菌があるのだという考えが広まり、医学は迷蒙の世界から抜け出すことが出来たということです。
彼の弟子といわれる人達もすばらしい業績をあげています。
彼が炭疽菌を発見し、ベルリン大学医学部で職を得たとき。彼をしたう若い研究者たち
が、世界中から集まって来るようになりました。

ガフキー(腸チフス菌を発見)、レフラー(ジフテリア菌を発見)ベーリング(血清療
法の研究によりノーベル賞受賞)エールリヒ(化学療法の研究により年ノーベル賞受賞)

そして北里柴三郎(破傷風菌を純粋培養し、ペスト菌を発見)もその一人なのです。


12月


11日
ヘクトル・ベルリオーズ (Hector Berlioz) 

1803〜1869 

フランスの作曲家

南仏イゼール県のラ・コート・サンタンドレで医師の長男として生まれました。幼い頃、両親はともに音楽的な関心が薄かったので、彼は独学で音楽の勉強をしたといわれています。

18歳のときに父の指示に従いパリ大学に入学して医学を学びましたが、医学には身が入らず、オペラ座やパリ音楽院の図書館で音楽の勉学を続け、最後は両親の反対を押し切って、パリ音楽院に入り、フランスの作曲家ル・シュールや、チェコの作曲家レイハに師事しました。

彼が23歳になったとき、パリで行なわれたイギリスの劇団によるシェイクスピア劇で女優ハリエット・スミッソンの舞台を見たのですが、彼はこの人気女優にすっかり心を奪われ、恋に落ちてしまったのです。

そして、思いを込めた手紙を何通も彼女に送ったのですが、見ず知らずの男からの手紙を大女優が相手にするはずもなく。彼は、見事に失恋してしまいました。

しかし、彼は、この経験、つまり、報われなかった愛の想い、惨めさ、恨み等を、ひとつの交響曲にまとめ上げました。これが1830年に完成した名作「幻想交響曲」です。

この作品は、楽曲に物語を組み込むという新しい手法で、それまでの音楽に革命をおこしました。彼はこの曲によって音楽と文学的テーマを関連づけた「標題音楽」を確立したのでした。そして、その後のロマン派の作曲家達、リストやワーグナーなどに大きな影響を与えたといわれています。

代表作として、交響曲「イタリアのハロルド」、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」のほか、「ファウストの劫罰」「ローマの謝肉祭」などがあります。また、「近代楽器法および管弦楽法」「回想録」「オーケストラ夜話」などの著作を残しました。

しかし、あまりにも独創的であった彼や彼の作品に対する評価は対立し、彼の偉大さがその生前にはあまり認識されず。彼も、作品に対する社会の無理解に苦しみつづけ、晩年は孤独であったといわれています。1869年3月8日パリで亡くなりなりました。
幻想交響曲の楽譜には、「恋に狂い、はげしい想像力をもった若い芸術家が、恋に絶望してアヘンを飲み自殺を図る。しかしアヘンの服用量は致死量ではなく、彼は、深い眠りの中で奇怪で幻想的な夢を次々とみる。夢の中で、彼が恋する女性は、固定観念のような旋律となり、あらゆる場所で彼はその旋律を聞く。」と書かれているそうです。
恋多きベルリオーズ

ハリエットに手紙を無視された彼は、若い芸術家が恋に絶望して阿片を飲み、幻想的な夢を見るというストーリーの曲を作り、彼女に想いを伝えようとも言われていますが、完成したときには、別の女性に夢中になっていたそうです。

その後、その女性と婚約までしたのですが、彼女は彼を裏切り、別の男性と結婚してしまいます。この時彼は、彼女たちの殺人計画を立てて実行しようとしたとも言われています。

その数年後にハリエットと再会した彼は、ようやく念願かなって彼女と結婚します。しかし彼女は、すでに女優としての人気を失い、彼は彼女のヒステリーや嫉妬に悩まされることになり、結婚生活は決して幸福ではなかったそうです。

その後、ハリエットの死後、愛人であった歌手マリー・レシオとすぐに再婚しましたが、彼女も8年後に急死してしまいます。

そして、61歳のときに、少年時代の初恋の女性に再会して、交際を申し込んでいますが、さすがにこの恋は実らなかったそうです。


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