12月


8日
津田梅子(つだうめこ)

(1864〜1929)

明治、大正時代の女子教育家

農学者津田仙の次女として、東京でうまれました。明治4年彼女が7才の時、日本の女子教育の向上のために、明治政府の欧米諸国との不平等条約改正を目指す岩倉具視を全権大使とする使節団と共に渡米しました。

彼女は、11年もアメリカで生活し、自由な教育を受けて男女平等の思想を教えられて帰国しました。しかし、男尊女卑を何とも思わずに黙々と親、夫、子に従っている日本女性の姿を見て驚き落胆して、日本女性の考え方を変えなければならない、将来女性のための教育をしようと決心したのでした。

そして、将来新しい女子教育の指導者としてやって行くためには自分が受けた教育だけでは十分ではないと考えた彼女は再度アメリカへ渡り、ブリンマー・カレッジに入学し生物学、教育学などを学んだのです。

帰国後は、華族女学校教授をつとめ、女子高等師範学校教授を兼任しました。その後、新しい女子教育のために自分の学校を作ろうと決心し、寄付金を集めはじめました。そして、彼女の魅力的な人柄に引かれ、学校設立の主旨に賛同した多くの人々、特にアメリカのキリスト教関係者が多額の寄付をしてくれたのです。

そのおかげで彼女は明治33年に「女子英学塾」という学校を設立することができました。その学校の教育方針は、熱意・忍耐・勤勉など精神面の重視、個性を尊重した少人数教育、広い視野を持つ人間の育成でした。

大正6年に体調を崩して聖路加病院に入院、退院はしましたが、その後、塾長を辞任し、以後晩年の10年間は御殿山で余生をおくりました。

彼女の作った学校が、今日本で最も有名な女子大学の一つである「津田塾大学(つだじゅくだいがく)」になったのです。
梅子はブリンマー・カレッジに在学中に寄付を集めて、2、3年に1人日本人女子学生をアメリカに送るための「日本婦人米国奨学金」という奨学金を設立した。この奨学金のおかげでアメリカで勉強して梅子が作った学校で教えた女性が数多くいたそうです。
津田仙(津田梅子の父)は、蘭学を学び、アメリカに留学、明治維新の前にちょんまげを切ってしまう改革派の人物でした。また、日本における西洋農学の先駆者で、明治になって彼の努力で林檎の栽培が普及したといわれています。
彼は進歩的な思想を持っていて、日本女性をアメリカで教育を受けさせて日本の女子教育を向上させなくてはいけないという政府の方針に同意して、娘をアメリカに送ったのでした。
梅子はワシントンDCの郊外にあるジョージタウンに住んでいるランマン夫妻の家で生活しました。ランマン夫妻は敬虔なキリスト教徒で子供がいず、わが子のように可愛がってくれました。初め英語が全く分からずつらい思いをしましたが、慣れるに従って聡明さを発揮し、学校で優秀な成績を取るようになりました。わずか8才の時にキリスト教の洗礼を受け、以後敬虔なクリスチャンとして一生を送りました。

しかし、日本に戻った彼女は、アメリカではすべて英語だったため、日本語を完全に忘れてしまい、家族に日本語で話せず、帰国当時は父親が通訳をしたほどで、日本語の学習が梅子の一生の課題になったといわれています。


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