12月


7日
西郷隆盛(さいごうたかもり)通称 吉之助

(1827〜1877)

敬天愛人

明治維新の元勲、政治家で軍人

鹿児島城下下加冶屋町山之口馬場で生まれました。西郷家の家格は、御小姓与(おこしょうぐみ)で、士分では下から2番目の身分である下級藩士でした。幼いとき、けんかで右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。

その後、藩主島津斉彬に取りたてられ、側近として活躍しました。斉彬の命により将軍継承問題に関与し一橋慶喜擁立に動きましたが、斉彬が俄かに発熱し、その8日後、急逝してしまったのです。そして、大老井伊直弼の安政の大獄により、彼も幕府の弾圧を受け大島に配流されてしまいました。

3年後にゆるされて帰国しましたが、前藩主島津斉彬を敵視していた島津久光(斉彬の異母弟・斉彬の次の藩主忠義の父)とそりが合わず、徳之島、さらに南の沖永良部島まで流され、過酷な生活を送りました。2年後にゆるされ軍賦役となり、公武合体を推し進める薩摩藩を代表して活躍をはじめます。

禁門の変・第一次長州征伐では幕府方として長州と戦い、この頃勝海舟から龍馬を紹介され、公武合体から倒幕へと考えを変えるきっかけとなります。第二次長州征伐の頃、龍馬の斡旋で長州藩の木戸孝允と薩長連合の盟約を結び、以後、討幕の方針をとり、維新軍の総帥として鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、函館戦争を戦いました。官軍による江戸総攻撃の前には勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を実現させました。

しかし、維新後、政府に征韓論を潰された西郷は鹿児島へと帰郷し私学校を設立します。このころ各地で不平士族の乱が続発していましたが、西郷はその動きに呼応しませんでした。しかし、大久保利通は旧薩摩藩士の暴発を恐れ、密偵を鹿児島に送り私学校生徒らと西郷の離間を謀り、これがきっかけとなり西南戦争が勃発。西郷軍は熊本城を陥落させることが出来ず、鹿児島の城山で別府晋介の介錯により自決したのでした。
明治22年2月、明治天皇の特旨により西郷隆盛の賊名が除かれると、感激した旧友の吉井友実らが醵金して上野に銅像が建立されることになりました。完工は明治30年。有名な高村光雲の作でしたが。除幕式に立ち会った西郷未亡人のイトが「宿んしはこげなおひとではなかっ。」と叫んだと伝えられています。
西郷は征韓論を唱えて大久保に反対されと多くの資料にも書いてありましたが、西郷は平和的使節派遣を派遣しようとしていましたが、大久保に反対されたという説もあります。
その西郷に反対し、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保は、その後台湾を武力で征伐して中国と事を構え、朝鮮と江華島で交戦し、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせまています。真実はどうだったのでしょうか。
西郷が亡くなった明治10年は火星が大接近した年で、当時の人は血のような赤い星を見て、あれは西郷の星だ、西郷は死んでいないと噂したそうです。
西郷隆盛の言葉

開闢(かいびゃく)以来世上(せじょう)一般十に七八は小人(しょうじん)なり、故(ゆえ)に小人の情(じょう)を察し人情の堪(た)ゆる所を以(もっ)て諸事施行(せぎょう)すべし。                           「西郷隆盛意見書」

(天地の開けたころから、10人に7、8人は度量が狭く、思慮が浅い人です。だから、その人たちの心をよく察して上手に導いてあげるようにしなさい。)

12月


7日
与謝野晶子

(1878〜1942)

「歌を上達しようと思ったら、恋をすること、そして歌を忘れないようにすること」

明治・大正時代の女流歌人

大阪府堺市の甲斐町に、和菓子で有名な駿河屋の三女として誕生しました。少女時代から文学書に親しみ、「女に学問はいらない」という親の目を盗んで本を読んでいたそうです。堺高等女学校を卒業後は、店の手伝いをしながら作歌に励みました。

その後、発表した詩歌が「明星」の与謝野鉄幹の目にとまり、以後「明星」に短歌を発表するようになります。明治34年東京へ出奔して鉄幹と一緒になり、その年「みだれ髪」を刊行し、その妖艶な歌風は、世の人の目をみはらせました。彼女はその後も明星派の歌人としてロマン的傾向の強い作品を発表して、多くの追随者を生み、近代短歌史上に偉大な足跡を残しました。歌集に「恋衣」「舞姫」「春泥集」「火の鳥」など数多くの歌集を出します。

また、彼女は詩も作り、明治37年には、日露戦争に従軍して旅順攻撃に参加していた弟の身の上を想ってよんだ反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を「明星」に発表して話題を呼びました。

少女時代から平安朝文学への理解が深く「源氏物語」の口語訳は多くの人に愛読されています。また、婦人、教育問題についての論文も残し女性の地位向上に尽力し、大正10年には、西村伊作、河崎なつ等と文化学院を創立して学監となり、提唱していた女子教育を実践しています。

昭和17年5月29日に狭心症の発作で亡くなりました。63歳でした。
  その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

  春みぢかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

  やわ肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君

  ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリコわれもコクリコ
彼女は二十二歳のとき妻子ある男性の与謝野鉄幹と結婚しましたが、その後2人は、
11人もの子どもたちをもうけました、彼女は偉大な歌人であると同時に偉大な母
でもあったのです。
「君死にたもうことなかれ」

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ


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