12月


3日
永井 荷風(ながい かふう)

(本名永井壮吉。別号は断腸亭主人)

(1879〜1959)

大正・昭和期の小説家

東京に生まれました。東京外国語学校を中退し、ゾラの影響を受け、「地獄の花」を書いたのち明治36年からフランスとアメリカに留学、帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語」「すみだ川」を発表。明治43年、慶応大学の教授を勤める傍ら「三田文学」を主宰して作家活動を行います。

彼は、優れた文章で下積みの女性を通して人生の真実を描き、耽美派と言われる作品を書きました。彼や谷崎潤一郎らの耽美派は島崎藤村・田山花袋らの写実的な自然派文学に対して空想の働きを重視し、感覚的に美しい小説を目指していました。彼ら以外に泉鏡花、木下杢太郎、北原白秋らの活動があります。

彼は明治の西洋至上主義的風潮への反発から江戸の町を舞台にした作品を好み、特に晩年は江戸の花柳界を描いたものが多数発表されています。

代表作に「腕くらべ」「墨東綺譚」などがあり、戦後は「踊り子」「勲章」などで退廃した風俗を描きながら、文明批評家と、詩人としての鋭さを見せていましたが、私生活、文壇でも孤独な存在でした。

昭和27年には文化勲章を受章しています。

昭和34年4月自宅の居間で急死しているのを朝8時ごろ同家にきた通いの手伝い婦がみつけました、胃潰瘍の悪化が原因でした。79歳でした。
悲哀や苦痛はつまり、楽しい青春の夢を楽しく強く味わわせる酒のようなものだ。
家政婦にも絶対立ち入らせなかった蜘蛛の巣だらけの6畳の居間の床の上に、南向けにうつ伏せになり、古びた紺背広、焦げ茶のズボンをはき、茶のマフラーをかぶったまま絶息していたそうです。普段持ち歩いていた預金通帳や現金などの財産を入れたつり下げバッグが床のそばに置かれていました(2500万円が入っていたそうです)。
「墨東綺譚」
取材のために訪れた向島は玉の井の私娼窟で小説家大江匡はお雪という女に出会い,やがて足繁く通うようになる。物語はこうして墨東陋巷を舞台につゆ明けから秋の彼岸までの季節の移り変りとともに美しくも,哀しく展開してゆく。

12月


3日
種田山頭火(たねだ さんとうか)(本名 種田正一)

(1882〜1940)

流浪の俳人

山口県防府市で、大種田と呼ばれるほどの大地主の長男として生まれました。父は村の助役まで務めた人でしたが素行が悪く、彼が11歳の時に、父が愛人の女性と旅行中に母が井戸へ身を投げて自殺し、その死体を目撃しています。

早稲田大学文学部に入学するものの、神経衰弱のため中退、帰郷して家に戻り父が始めた酒造場を手伝いながら療養し、28歳の時に
結婚して子供も生まれ、ちょうどこの頃から荻原井泉水に師事し、自由律俳句誌「層雲」に出句するようになりました。

しかし、その生家も実父の放蕩、自身の酒癖、自堕落から没落し破産してしまいます。彼は妻子を連れて熊本に移動し、商売を始めましたがうまくいかず、妻とも離婚し、心機一転東京に出ます。しかし、東京でも職を転々としている内に関東大震災がおこり、行き場先のなくなった彼は結局熊本の、元妻の所に転がり込みます。

その後、自殺未遂をおこしますが、報恩寺の望月義庵和尚に諭されて、この寺の寺男となって、大正14年には得度し耕畝と名乗るようになりました。その後、雲水となって破れた笠、えごの木の杖、鉄鉢を手に各地を行脚するようになり、そうした酒と旅の日々を一行の禅味ある独自の句に残しています。

彼は、放浪生活の傍ら、庵を3度結んでいますが、3度目の庵となった松山の「一草庵」で、隣室で句会が行われている最中に脳溢血を起こし、昭和15年10月11日に亡くなりました。58歳でした。彼が、生涯に詠んだ句は84.000句といわれています。
彼の人生は、常に迷いと苦悩の中にあり、その中で、酒に溺れ、周囲の人達に援助を乞い、周囲に迷惑ばかりをかけていましたが、その漂泊の生涯は、人々の心をとらえてやまず、戦後40年の間に50基を超える句碑が建立されているそうです。
   分け入っても分け入っても青い山
   ふるさとの水をのみ水をあび
   朝は澄みきっておだやかな流れひとすじ
   夕焼うつくしく今日一日つつましく
   おちついて死ねそうな草萠ゆる
   どうしやうもないわたしが歩いてゐる
   歩かない日はさみしい
   飲まない日はさみしい
   作らない日はさみしい
   ひとりでゐることはさみしいけれど、
   ひとりであるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない。


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