11月


30日
マーク・トウェイン(本名 サミュエル・ラングホーン・クレメンズ)

(1835〜1910)

「大人でも子どもでも、何かをほしがらせようと思ったら、それが簡単には手に入らないようにすればよい」

アメリカの小説家

ミズーリ州の人口百人くらいの小村フロリダに、父ジョン・マーシャルと母ジェイン・ランプトンの第六子として生まれました。

12歳ときに父が死亡、彼は学校を中退し、新聞社で植字工見習として働きます。やがて、子どもの頃からの夢である「アマゾン探検」を果たそうと、22歳のとき、蒸気船でアマゾンに向かういましたが、資金不足のため、そのまま蒸気船の水先案内人として働くようになります。

その後、27歳でヴァージニア・シティの「テリトリアル・エンタプライズ」紙の記者になり。同紙に短い戯文を掲載した時、はじめて「マーク・トウェイン」という筆名を用いています。これは、水先案内人時代の用語で、浅瀬の多いミシシッピ川を航行する蒸気船が、水深を測りながら運行する時の安全水域「水深ニ尋」の意味だそうです。

この頃、話術の名人といわれたアーティマス・ウォードから話術を習い、小説家ブレット・ハートから小説の手ほどきを受けています。1865年、ニューヨークのサタデー・プレス誌に送ったユーモア短編小説「ジム・スマイリーと彼のだいじな跳び蛙」が好評を博し、作家としてその第一歩を踏み出したのです。

35歳の時に、富豪の娘オリビアと結婚。その後約20年にわたり「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」「王子と乞食」等の有名な作品を次々と発表しました。

しかし晩年は、事業の失敗、妻と子どもたちの死などで薄幸の人生を送ることになります。そして彼自身の予言どおり、前夜あらわれたハレー彗星とともに、七十五年の生涯を終わったのでした。

彼の作品は人間社会の矛盾を独特のユーモアで皮肉っており、国民から「アメリカ文学のリンカーン」として尊敬されました。
とび蛙のお話

ある賭けごとの好きな男が、自分のかえるにスーパージャンプを仕込みます。
そしてこのかえるに跳びくらべをさせては儲けていたのですが、ある時、勝負の相手がこっそりこのかえるに散弾をごっそり飲ませて跳べないようにしてしまいました・・・
青年時代のトウェインが、ネバダの金鉱掘りをしながら新聞記事を書いていた頃の作品です。酒場で聞いたほら話をもとにしたとも言われています。これがニューヨークの新聞に掲載されたことで、一躍ユーモア作家として名を馳せていくのでした。
トムソーヤの冒険
いたずらっ子のトムが宿なしのハックたちと一緒に行うさまざまな冒険を挿話的に綴った悪童小説。トムのペンキ塗りの話,墓場で目撃する殺人事件,自分たちの葬儀の最中に意気揚々と凱旋する話,洞窟に閉じ込められる話など,子供らしい冒険を描きながら,ポリー伯母さんに代表される上品な社会や文明に対する反発の気分を浮び上がらせる。
「この本は、主に少年・少女を喜ばせてあげようと思って書いたものですが、大人にも読んでもらいたい。大人の方は、自分の少年少女時代に自分がどんなことを感じ、考え、おしゃべりをしたか、どんなとんでもないことに夢中になったか・・・、そういったことを思い出してもらいたいためにもこの本を書いたのです。」(トムソーヤの冒険)
ハックルベリーフィンの冒険
「トム・ソーヤーの冒険」の続編で,「文明化」されることを嫌う少年ハックが逃亡奴隷のジムとともにミシシッピ川を筏 (いかだ) で下る間に遭遇するさまざまな冒険を,方言を交えた巧みな口語体で語ったもの。「ミシシッピ川の国民的叙事詩」と呼ばれ,アメリカ人の内なる夢にいきいきとした表現を与えただけでなく,その清新な文体はヘミングウェー,J.D.サリンジャーらに多大の影響を与えた。
大人でも子どもでも、何かをほしがらせようと思ったら、それが簡単には手に入らないようにすればよい」

やんちゃなトムは、学校をさぼったり、砂糖をくすねたり、 夜おそく帰って窓から忍び込もうとしたりして、 母親代りのポリーおばさんを困らせます。 そこでおばさんは、 罰として土曜日の休みに板塀を塗る仕事を与えました。

天気のよい夏の朝、 高さが3メートル近くもある長い塀を塗るなんて、 見ただけでうんざりです。 その上、仲間に見つかればどんなにばかにされるかわかりません。 最初トムはポケットのビー玉やがらくたで友だちを買収して やってもらおうかと思いましたが、品物はとても足りません。 そこでいろいろ考え、すばらしいことを思いつきました。

トムは友だちが来ると、 こんなに楽しくてやりがいのある仕事はない、というふりをして、 一生懸命に塗って見せました。 すると、初めはトムをからかっていた友だちもだんだん引きつけられて 誰もがやりたくてたまらなくなり、 持っているものを差し出して塗らせてもらう子が 列を作るようになったのです。 トムはのんびりと遊ぶことができた上に、 りんごやチョークやガラスのかけらなどの宝をせしめて財産家になりました。 塀は3回も塗り直されたほどでした!

11月


30日
ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swif)

(1667〜1745)

イギリスの作家

アイルランドのダブリンで、アイルランドに移り住んだイングランド人の両親のもとに生まれました。しかし、父ジョナサン(同名)は、彼が生まれる数ヶ月前に亡くなり、しかも、母親も彼を産んでまもなく、彼を残してイングランドへ戻ってしまったため彼は、伯父に引き取られ、養育されました。

成長して、トリニティ・カレッジに入学しましたが、在学中、 学業を怠り規律を守らず極端な問題児だったそうで。そのため、特別なはからいで卒業し学位を得たと言われています。 卒業後は、イングランドに渡り引退した外交官ウィリアム・テンプルの秘書を務めるようになり、学問・宗教・政治・社会を風刺した文章を書いて物議をかもしていましたが、1699年のテンプルの死後は、ダブリンに帰って僧職につき、1714年には聖パトリック教会の主席司祭となっています。

その後、1726年10月彼が59歳の時、匿名で「ガリヴァー旅行記」を発表します。当初、「ガリヴァー旅行記」は実在のレミュエル・ガリヴァーという人物が書いたという形式をとって出版されました。しかし、著者の名はすぐに知れ渡り、 初版は一週間で売切れ、 同年中に数回版を重ねて、 「上より下まで、 閣議室より子供部屋まで」 ゆきわたり、 大いに人々に愛読されたといわれています。

しかし、彼は生来の「めまい」に生涯悩まされ続け、1730年代より精神錯乱の傾向を示すようになり、厭人孤独癖がますます強くなり、75歳にして痴呆状態となって、ついには精神にまで異常をきたして亡くなりました。77歳でした。彼の最後の言葉は「阿呆だ俺は」だったといわれています。遺言により、遺産は精神障害者の病院設立に当てられました。

他の著作に、宗派抗争を揶揄した「桶物語」(1704)、通貨政策を批判した「ドレイピア書簡」(1724)などがあります。
「ガリヴァー旅行記」

「リリパット国渡航記」「ブロブディンナグ国渡航記」「ラピュータ国渡航記」「フィナム国渡航記」の4部で構成されています。

リリパット国は小人国です。身長6インチ(15センチ)ほどの人の住む国で、海を隔てたブレフスキュ国と、卵を食べるときとがった方から先に食べるか否かで、対立している様子を通して。当時のイギリスの政治(戦争、奴隷制度、植民地主義等)を皮肉をこめて描いています。

ブロブディンナグ国は巨人国で、人間の12倍の身長の巨人の住む国です。この国は農業国で平和が保たれ、おおむね好意的に描いてあります。

ラピュータは空飛ぶ島で、そのラピュータには支配者が住み、その下の陸地がバルニバービと呼ばれています。ここでは、当時盛んであった自然科学研究の行過ぎや思弁にふける学者への風刺がこめられています。(「天空の城ラピュタ」の名はこれに由来するそうです。)

最後のフィナム国は理性を持った馬の姿をしたフィナムが支配する国で、人間によく似た野蛮で下品な下等動物ヤフーと呼ばれる動物が登場します。彼はフィナム達に、知性を持ったひじょうに珍しいヤフーとして迎えられます。

(検索サイトで有名なYahooはここからとった名前で、これはYahooの開発者達が自らを「ならず者」と謙遜したことから始まるとのことです。)
なお、スウィフトと「ガリバー旅行記」について、もっと詳しくお知りになりたい方は、下記のHPがお薦めです。
バーチャル寺子屋・頓珍館
http://homepage1.nifty.com/yamuna/index.html

上記サイトの『ガリヴァー旅行記』で歴史を読む。のページです
http://homepage1.nifty.com/yamuna/tonchinkan/class/gulliver/gulliver_main.html


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