11月


27日
松下幸之助

(1894〜1989)

無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。

実業家、松下電器産業の創立者

和歌山県和佐村で8人兄弟の末っ子として生まれました。小地主の家で本来家は豊かでしたが、やがて父が相場で失敗。彼は小学校を中退し、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出に出ます。

しかし、子守から店の掃除・手伝いにいたる多くの経験を糧に、商売人としての心得を幼い心に植えつけていきました。同時に、その暮らしが幸之助生来の商才を目覚めさせたのです。子守のために三日分の給金でまんじゅうを買ったり、お客様に頼まれるタバコを買い置きして、おまけをもらったりと、お金を活かして使う才にすぐれた感覚を見せはじめていました。

そして、その後、自転車店、セメント工場、等に務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した彼は大阪電灯に入社し内線係見習工になりました。

その後、22歳の時に会社を辞めて独立。妻と義弟との3人で、自宅の土間で作った電球ソケットの販売を始めます。最初は商品が売れずに苦労しましたが、徐々に受注も増え、翌年松下電気器具製作所を設立しました。

この後、ランプ、アイロン、と商品を製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功。これが東京放送局のラジオセットコンクールで1等に選ばれ、松下の名前は一躍有名になり、総合電器メーカーとしての地位を確立しました。

その後1933年には早くも事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船、松下飛行機などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる軍需工業解体の余波で苦況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代に入ってから松下は完全に復調しました。その後、1952年には世界最大の電器会社オランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていきました。

彼は経営者としても一流でしたが、経営に関する思想家としても一流で、事業部制を採用してそれぞれの部門が責任持って事業を推進できるようにし、従業員との対話・企業の一体感の維持、などにも天才的な才能を発揮しました。これだけ大きな企業を一代で作りながら、生涯彼がクビにした社員はわずか数名であったとのことです。

また、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指し、とりわけ、正しい道徳教育で魂を磨いた上での知識の活用の重要性を説くなど、民間思想家としても活躍しました。さらに民間外交上の功績も大きく、世界に通用するたぐい稀な人であったといわれています。

また、1980年には、これからの日本には確固たる信念のあるリーダーの養成が特別に必要と、松下村塾にもなぞらえた、松下政経塾を開塾。ここに熱意あふれる若者が集まり、多くの有望な政治家が出てくることになります。

※PHP運動
「Peace and Happiness through Prosperity」の頭文字で、ビジネス活動により社会平和と、幸福を実現しようという運動。
1929年(昭和4年)暮れ、松下幸之助に番頭格の社員が「クビを切るしかおまへん」と決断を迫りました。デフレ政策にアメリカの株価大暴落が重なった昭和恐慌では、倒産する企業が相次いだ。従業員500人を抱え、破竹の勢いだった松下電器製作所(現松下電器産業)でも、在庫が倉庫からあふれ、人員削減が緊急課題となっていました。

彼はは、このとき「決めた。人は1人も減らさん、日給も全額払うで」と言い切ったのです。会社がもたない、と思い今にも泣きだしそうな幹部に、「生産半減のため工場は半日操業。代わりに、休日返上で在庫を売るんや」と号令をかけました。

解雇を覚悟していた従業員の負けじ魂に火がつき、なんと在庫は3か月でさばけてしまったのです。

 「一時の苦境で、従業員を手放すのは、情にも理にも合わん」と考えた幸之助は、この時、既に不況後の事業拡大をにらんでいました。

この経験は、後に社内外で「神話」と化し。雇用を守る企業の象徴として語られるようになり、社内には人員削減を避ける雰囲気が醸成されていきました。

それから70余年たち、松下幸之助という存在がなくなった現在、松下グループ主要5社は、早期退職優遇措置を導入しました。応募者は数千人に上る、とみられています。
「水道哲学」

昭和7年当時の時松下電器は、創業15年、店員100余名、工員1000余名を抱える一大企業に成長していきました。しかし、世情は騒然としており。昭和2年に日本で金融恐慌、昭和4年にはアメリカ・ウォール街の株大暴落から世界大恐慌が起こり、不況からの脱出の道を植民地に求めて軍部が暴走、満州事変が勃発し、昭和7年には満州国の建国宣言がなされた、非常に不安定な世情でした。

その頃、取引先の人に誘われて、幸之助は天理教と推察される宗教団体の本部に参詣したのです。そこで見たものは、広大な教団の施設、静寂と敬虔のみなぎった雰囲気、無償で喜々として奉仕する多くの信者、急ピッチで発展していくたくましいエネルギーでした。彼は、非常に衝撃を受けました。

この教団はこんなに繁盛しているのに、我々の業界は暗澹として倒産者が続出している。この差はいったいなんだろう、と。考えてみると、あの教団の人たちは、尊い仕事に従事しているという信念に燃えている。しかし、僕らのほうは戦々恐々としてやっているではないか。これではダメだ。我々生産者の使命は何か。貧乏を克服することだ。それは水道の水のようなものではないだろうか。水は加工され、価値もあるものだが、あまりにも豊富であるから、安いのだ。ここだ、我々の使命は。

すべての物質を水のように安価で豊富に生産していこう。そこで初めて貧は征服される。宗教は心の安らぎを与え、我々は豊かに物資を供給する。その両輪が備わって初めて人間生活が完成する。その両輪は同じ尊いものや・・・・・。

 「水道哲学」と呼ばれるこの経営方針を社員に訴えると、重役から新入女子社員まで、我も我もと競って壇上に上がり、感動の決意表明をしたといいます。
松下幸之助の言葉

・知識や学問は学校で学ぶことができが、知恵は教えられない。これは、自分で開発するものである。

・行き詰まった時は決してうろたえてはいけない。無理をせず、十分に休養して力を養うのも一策である。

・自らも楽しみ、人々にも喜びを与える。人生の心構え。

・希望を失うな。明日に夢を持て。夢を持つことが人生においてどんなに大切なことか。

・同じものを見ても喜ぶ人・不満を持つ人がいる。我々は、喜びを感じる人でありたい。

・人との縁・つながりは大切なもの。縁あるっことを喜び、誠意と熱意でお互いのつながりをより強めたい。

・悩みはあって当たり前。それは生きている証であり、常に反省している証左でもある。

・山は西からも東からでも登れる。自分が方向を変えれば、新しい道はいくらでも開ける。

・喜ぶことを知り、有難さを知り、感謝する心を知っていれば、この世は非常に楽しいものになる。

・思ったことが全部実現できたら危ない。3回に1回くらいがちょうどいい。

・かつてない困難からは、かつてない革新が生まれ、かつてない革新からは、かつてない飛躍が生まれる。

・何事にも素直な心で何故と問いたい。何故と懸命に考えるところから、進歩が生まれる。

・人生にはカメのような第一歩が大切。二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば失敗する。

・焦ってはいけない。遅れているからこそ1番にもなれる。だから、生きがいもあり、やりがいがある。

・体験を通じて身についたものは、その人だけんに与えられた、何にも勝る宝である。

・転んだら立たねばならぬ。赤ん坊でも転んだままではいない。すぐ立ち上る。

・自分の生命はいつ尽きるかわからない。しかし、その最後の瞬間まで精一杯生き切りたい。

・己を愛するが如く他人を愛す。そんな心からは決して争いは生まれない。

・誰にでも与えるものはある。笑顔を、笑いを与える。求める活動から与える活動へ。

・例え平凡で小さなことでも、それを自分なりに深く噛みしめ味わえば大きな体験に匹敵する。

・病をわずらって悲観することはない。それがまた、人生の深さ・広さを知る、貴重な体験になる。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に