11月


26日
サー・ウイリアム・ジョージ―・アームストロング(Sir William George Armstrong )

イギリスの発明家、企業家

(1810〜1900)

カンバーランドに生まれ、少年時代ニューカッスルの弁護士のもとで働き、その後ロンドンにでて法律を学びましたが、機械に興味を持ち、回転式水力発電機や水圧起重機を発明しました。1847年には法律家になるのを断念し、エルスウィックに機械工場をつくりました。


その後、クリミヤ戦争の際に大砲の改良を思い立ち、後装式旋条砲のアームストロング砲を発明、製作しました。これは、火砲構造の基礎をなすもので、1859年にはイギリス政府にその功績を認められてナイト爵の称号を受け、政府の兵器廠の長官に就任し、更に、王立鋳造所長にも任ぜられました。

アームストロング砲は1863年の薩英戦争でも実戦に使われ、射程・命中精度ともに良好であったものの耐久性に問題を生じ、これの改良のためまもなく辞職し、兵器工場経営に当たっています。

彼の設立したアームストロング社は、のちビッカーズ社と合併しビッカーズ・アームストロング社となり、ドイツのクルップ社と並ぶ大兵器製造企業として、イギリス国内はもとより,全ヨーロッパに経済的、政治的影響をあたえ、軍事史上に数多くの貢献をしました。
アームストロング砲は、日本の歴史に非常に関わっています、薩摩・長州を中心とする官軍は、長崎のグラバー等によってイギリスより入手したアームストロング砲を用いてフランス式旧青銅砲で武装した上野彰義隊を半日で打ち破っています。また帝国海軍の軍艦の多くがこの会社によって建造されています
この戦いは、当初圧倒的に彰義隊が有利でした。その頃、佐賀藩はじっと益次郎の命令を待っていました。佐賀藩は、この時、世界で一番すぐれたアームストロング砲を、図面だけを見て自分たちで作りあげていたのです。

彰義隊は、新政府軍をあるていどやっつけると安心して自分たちの陣地がある上野に引き上げていきました。その時、江戸城の富士見やぐらで戦いの様子をうかがっていた益次郎は大砲の発射を命じました。わずか数分で、この勝負は、新政府軍の勝利に終わったのです。

アームストロング砲は、鋼鉄製で、弾の飛ぶ距離もながく、弾はさく裂するものだったので、弾が落ちた数メートルの範囲には穴があるだけで何も残らないという近代的な兵器だったようです。しかし、彰義隊隊が使っていたのは、主に青銅製で、鉄の弾が飛んでいくだけで、弾の飛ぶ距離は、佐賀藩の使った大砲に比べると問題にならないぐらいの程度だったようです。
日本史において、アームストロング砲がベールを脱いだのは薩英戦争である。薩摩藩は海岸に射程1300〜1400メートルの80ポンド要塞砲、射程2800メートルの24ポンドカノン砲を装備していたが、英国軍艦はアームストロング砲を装備しており、その射程は4000〜5000メートルに達した。薩摩藩は、このアームストロング砲の洗礼を受けて痛手を被っている。しかし、安全性が極めて無い砲とも言われていた。南北戦争でもアームストロング砲は砲身が爆裂する事がたびたび有った。この結果、幕末当時は英国もアームストロング砲を標準装備にしていない。にも関わらず、佐賀藩はアームストロング砲を研究し続け、その開発に成功したのである。

佐賀藩は、アームストロング砲の装備を始め、佐賀藩の砲隊や軍艦の艦載砲にアームストロング砲を採用し、官軍内で最強の火力を持つ事になった。

アームストロング砲は、近代の後装砲の先駆けとなった後装施条砲である。砲弾は鉄製で、砲腔の条溝に密着する様に鉛で被覆が施されており、命中精度が非常に高かった。砲弾装填は、砲尾を開け砲弾を装填し、発射火薬を入れ、砲尾を閉めて完了となる。前装砲の様に前から装填しないため、砲撃中にいちいち砲をさげ、人間が前にまわり装填するという作業が省略できる上、砲の仰角や位置を固定したまま次弾装填できるため、照準を狂わす事無く射撃できた。
 戊辰戦争で、アームストロング砲が猛威を振るった戦いは「上野戦争」と「会津戦争」である。上野戦争では、二門のアームストロング砲が本郷台(現在の東大敷地)から不忍池を越して寛永寺に打ち込まれ、彰義隊を苦しめた。会津戦争では、会津鶴ヶ城攻城戦で、アームストロング砲は小田山に据えられて鶴ヶ城を砲撃している。

11月


26日
ペレス・エスキベル

(1931〜)

アルゼンチンの彫刻家・建築家・平和運動家。

ブエノスアイレスで漁師の子として生れました。国立美術学校を卒業し、彫刻家・建築家として活躍し、国立美術学校の教授に就任しています。

1971年に職人の協同組合結成のための団体に参加。テロリストと軍事政府が暴力を行使し合う内乱状態のなかで軍縮、核不拡散および社会改革を目指す運動を始めました。

1974年コロンビアで「平和と正義のしもべ団」の事務局長に就任すると。非暴力による紛争解決を唱えて、軍事政権の下で2万人にものぼる行方不明者の追跡を行い、また、スラムの追放に尽力するなど、軍の過酷な弾圧によって権利を奪われた政治的無産階級者の人々を擁護しました。しかし、1977年には14ヵ月の間投獄されてしまい、拷問にさらされました。

しかし、その活動は国際的にも高く評価され1980年には、ノーベル平和賞を受賞しています。

11月


26日
チャールズ M. シュルツ

(1922〜2000)

アメリカの漫画家、ピーナッツ(スヌーピー)の作者

ミネソタ州セントポールに生まれました。父親は床屋で、彼は店にある新聞や雑誌のコミックを読み、将来漫画家になりたいと思ったそうです。

彼は小さいときから絵の才能があり、そんな彼のために母親は、絵の通信教育学校の広告を見つけ、父親は、息子のために高額な学費を出してくれたのです。彼は、両親の愛情にこたえ無事講座をやり遂げました。

しかし、第二次世界大戦がはじまってしまいます。彼もヨーロッパ戦線に従軍し、陸軍二等軍曹として機関銃分隊を率いて戦いながら、戦地で友人たちのために似顔絵などのスケッチを描いていたそうです。

彼は無事生還できましたが、なかなか仕事も見つからず、画家養成学校で先生を勤めたり、漫画のアシスタントの仕事をしたりしていました。そんな中で、彼は投稿を続け、ついに全国紙の漫画欄に15点もの漫画を売り込むことに成功したのです。

そして、1950年に「ピーナッツ」の前身となった「リトル・フォークス」がユナイテッド・フィーチャー・シンジケートに採用されたのです。当初は掲載紙数も少なかったのですが、彼の描く「ピーナッツ」は、またたく間に人気漫画となりました。

彼は、それから50年もの間、アシスタントも使わず、たった一人で「ピーナッツ」を描きつづけました、そして、アメリカ文化に対しての影響力と功績からエミー賞やリューベン賞など数々の賞を受賞しています。

しかし、1999年12月14日健康上の理由から引退を発表しまし、2000年2月12日大腸癌による併発症のため、カリフォルニア州サンタローザの自宅で亡くなりました。77歳でした。
1984年には、新聞掲載数が2000紙を超え、ギネスブックに世界一広く読まれている漫画として公認され、現在日本を含め世界75カ国2600以上の新聞で掲載され、読者数も3億5500万人に到達するまでになっています。
彼は世界的な有名人になったあとでも、地元の人々のため建てたスケート場内にある「ウォーム・パピー(暖かい子犬)」という名のカフェでスケートをする子供たちを眺めながら朝食をとり、その後仕事場でコミックを描くという、それまでの生活スタイルをまったく変えず、日々を過ごしていたということです。
彼の最後のコミックは、デイリー版では、1月3日付けで発表されましたが、サンデー版は、奇しくも、彼の亡くなった翌日の2月13日付けで彼のメッセージが入ったコミックが発表されています。
「ピーナッツ」
チャーリー・ブラウンやルーシー、ライナス、シュローダーといった個性的な子供たちとビーグル犬スヌーピーが活躍する物語
ピーナッツ」最後のメッセージ。

親愛なる友へ

50年近くチャーリー・ブラウンとその仲間たちを描いてきた私は幸せでした。そうすることで、私は幼い頃からの夢を実現してきたのです。

残念なことに私にはもう毎日コミックを描き続けることができません。また、他の誰かが「ピーナッツ」を引き継ぐことを私の家族は望んでおりませんので、ここに引退を表明いたします。

誠実な編集担当者、そしてファンから寄せられた激励や愛情にこれまでずっと感謝してきました。

チャーリー・ブラウン、スヌーピー、ライナス、ルーシー・・・・ この子たちを忘れることなどできるわけがありません。

チャールズ M. シュルツ


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