11月


25日
アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)

1835〜1919

アメリカの実業家 製鋼王

「金持ちのまま死ぬのは恥である」

スコットランドの手織工の家に生まれました。1848年に移民として、一家とアメリカに渡りましたが、渡米後、父親が事業に失敗したために、13歳のときからペンシルベニア州アレゲニーにある木綿工場で、週給1ドル20セントの糸巻き少年として働きはじめました。以後、ピッツバーグ電報局のメッセンジャーやボイラーマンと向上心に燃え、与えられた以上の仕事を率先して行ないました。

そして、その積極性が上司にも認められ、ペンシルベニア鉄道の鉄道官の秘書兼電信技手、ピッツバーグ局の監督者と、順調に昇進していきました。あるとき鉄道の通る木橋が焼けて、数日にわたり鉄道が不通になる。その時カーネギーはこれからは鉄橋の時代だと将来を見通し、戦後、カーネギーは鉄道をはなれ、鉄橋をつくる会社を創設。

その後さらに、ピッツバーグに最新式の製鉄工場(エドガー・トムソン工場)を設立し、アメリカでのベッセマー製鋼法の最初の利用者のひとりとなりました。この事業は大いに成功し、ほかの大製鉄工場の支配権をも獲得していったのです。その利益はカーネギー製鋼会社に連結し、1899年にはアメリカの鉄鋼生産の約25%を支配するまでになりました。

しかし彼は、途中では金の亡者になっている自分に気づきその考えを改めました。彼は従業員のためになることから初め、「お金とは社会公共の物であり、個人の所有物ではない。」と稼いだお金のほとんどを、公共物や社会に使いはじめたのです。

その後、財産を寄付し、芸術、科学、平和への貢献のためカーネギー財団、国際平和基金を設立したりもしました。1891年には、カーネギー・ホールのこけら落しのため、チャイコフスキーをアメリカへ招待したりもしています。また、アメリカだけではなく、世界に2811箇所の図書館を作るなど自分の財産を人々のために使いました。

その後1901年にモーガンがUSスチール社を創設すると、彼は2億5000万ドルでカーネギー製鋼会社を売却し、引退しました。
「金持ちのまま死ぬのは恥である」との彼の言葉どおり、彼は亡くなるまでに3.5億ドル相当をあちこちに寄付したといわれ、普通の庶民並の遺産しか残さなかったそうです。墓碑銘に刻ませた言葉は「ここに、自分より賢い人々を、周囲に集める術を知っていた1人の人間が横たわる」でした。
カーネギーは、「お金をただ与えるだけでは、人を堕落させてしまう。努力している人に援助をすることが本当の慈善である」と考え、すべて建物だけを寄贈し、後の中身の充実は、それを使う人達に任せたといわれています。
鉄鋼王カーネギーは、多くの図書館をアメリカだけでなく、英語圏の国々に寄付しました。彼は「図書館の聖なる後援者」とも呼ばれ、公共図書館にまつわる話もたくさんあります。彼が図書館建設のために自分のお金を寄付しようとした理由は、「アメリカの実力主義は図書館で育てられる」と信じたからだと言われています。また、「自分のように伝統文化を離れて異文化にやってきた移民は(彼は貧しいスコットランド移民の子どもとして生まれた)、アメリカの文化を学ばなければならない。それができるのが図書館である」と考えたからだとも言われています。アメリカで図書館めぐりの旅をすると、多くのカーネギーによって建てられた図書館に出会います。
カーネギー少年の智恵

カーネギーが子供のころ一匹の野うさぎを捕まえました。この野うさぎはお腹に子供を持っており、彼は、この野うさぎに子供を生ませて、それを大きく育てるこ とを夢みます。しかし、家が貧乏なために彼は朝から晩まで働き詰めで、野うさぎの餌を採ってきたり、面倒を見る時間がありませんでした。そこで、彼は一計を案じました。

ともだちを集め、彼等にこう伝えたのです。「このうさぎはまもなく子供をたくさん生むよ。餌を採ってきてくれたら、君たちの名前を生まれてきた子うさぎにつけてあげるよ」と。

すると、子供達は名前を付けて欲しくて、競って餌を採ってきました。また、名前を付けてもらった子供は、自分の分身を飢え死にするわけにはいきません。学校が終わるとカーネギー少年の代りにせっせと餌を採ってきたのでした。こうして、彼は自分の夢を見事に達成したのでした。
ディプロドクス・カーネギー
恐竜の一種ディプロドクスの全身骨格がアメリカのユタ州で発掘された時、その発掘資金を寄付してくれたアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーにちなんで、彼の名を種小名につけたそうです。喜んだカーネギーはその骨格標本を8体も複製させ、世界各国の博物館に寄付しました。
アンドリュー・カーネギーの言葉

「自分の名誉を傷つけられるのは、自分だけだ」

「自らを助けない者を救おうとしても、無駄だ。ハシゴを自分で登る意志のないものを他人が押し上げることはできない」

「すべての成功、すべての巨富は、まずアイデアから始まる。」

「一番乗りは牡蠣を得るが、2番目の人は貝殻しか得られない」
誰でもよい機会に会わぬ者はない。 ただ、それをとらえないだけである。
「人は受けるより与えることの方がもっと幸せなのである」

「成功するには、成功するまで決して諦めない」

「自分で仕事をするのではなく、仕事をさせる適材を見つけることが大切だ」

「諸君の精力と思考とを、自分の使命に集中させよ!なすべきことを、とことんまでやりぬけ。あらゆる改善をし、あらゆることに精通し、なすべき仕事を完璧にマスターせよ!」
カーネギーとヘレンケラー

1909年、アメリカがインフレに襲われる困窮にあえいでいる中、百万長者の慈善家アンドリュー・カーネギーがケラーに5千ドルの終身年金の給付を申し出た時、彼女はその申し出を丁重に辞退しました。ケラーは、「私はすでにかなりの分け前にあずかっていますし、数百万ドルでも彼ら困窮している人たちの正当な取り分としてはまだ少いのです」と書いています。

その後もアンドリュー・カーネギーがケラーに年金給付の申し出を再提示しましたが、彼女は微笑みながら丁重に断りました。彼女は、1914年の春、彼に「私はまだ打ちのめされてはいません」と語っています。

しかし、2人で講演していたメーン州のあるホテルでサリバン先生が倒れた時、ケラーは大声で助けを求めることができませんでした。彼女は後に「自分の無力さに戦慄しました」と書いています。ようやくホテルの支配人が現れて、彼の助力で2人の女性がレンサム行きの列車に乗り込んでくれました。
 無事に帰宅して、ケラーはカーネギー宛に、メイン州での出来事を率直に述べ、そして自分の無力さをいやというほど感じていることを認める手紙を書きました。カーネギーは、次のようなメモとともに、ただちに小切手を送ってくれました。「ある人が他の人のためにしたいことを、他の人がその人のためにすることを許せるような高みにまで昇り得る偉大な精神の持主は、数人しかいません。そしてあなたはそこまで昇りつめたのです。」
 カーネギーからの贈り物により、ケラーとサリバンはアシスタントを1人雇うことが可能になったのです。
鉄鋼王と言われたアンドリュー・カーネギーは幼いころ、生活がとても厳しかったため、カーネギーは学校にも行けず、家計を助けるために働きました。13歳のころ、彼は電報配達の仕事をしていましたが、早朝から日が暮れるまで必死に働いて、食べていくのがやっとでした。 ある日、いつものように彼は電報を届けるために家々を回り、疲れ果てて公園のベンチで休んでいました。彼は思いました。「こんなに働いても、一向に生活は良くならない。僕の人生は一生こんなもので終わってしまうのだろうか」。彼は1人ベンチでうなだれていました。 すると、そこへ1人の中年の男性が近づいてきて言いました。「私は画家をしているのだが、よかったらモデルになってくれないだろうか」。カーネギーは承諾し、画家はカーネギーの顔を描き始めました。しばらくして、でき上がった絵を見たカーネギーはびっくりしました。キャンバスに描かれたカーネギーの顔は輝き、希望にあふれ、無限の可能性に満ちていたのです。「えっ。これが自分?」彼はしばらく絵を見つめていました。その絵に元気づけられて、カーネギーはその後創造的な人生を歩み、鉄鋼王となって、アメリカンドリームを実現していったのです。


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