11月


24日
アンリ・トゥールーズ・ロートレック(Henri MarieRaymond de Toulouse-Lautrec)

1864〜1901

フランスの画家

「もう少し足が長ければ絵なんぞ描きゃしなかった…」。

フランス南西部のアルビのボスク邸館で、貴族の息子として生まれました。父は軍人であったアルフォンス・ド・ドゥールーズ=ロートレック伯爵、母アデルはアルフォンスの従妹であった。この近親婚は後に彼の人生に暗い影を落としました。

一家は揃って絵を描くことが好きで、また乗馬も得意でした。幼い頃は「小さな宝石」と呼ばれ家中でかわいがられていましたが、両足の大腿骨を折るという二度の事故のあと、血族結婚の影響もあってか、それ以後足の成長がとまってしまいました。
父親はロートレックに関心を示さなくなり、公爵の継承権を妹に譲り、伯爵の位も返上したのです。ロートレックに残された道は絵を描くことだけでした。

叔父に絵の手ほどきを受けたことのある彼でしたが、大学受験の資格を得て本格的に美術の勉強をはじめ、1882年、18歳の時に当時パリで名声を博していたレオン・ポナの門下に入り、次に今度は歴史画家フェルナン・コルモンのアトリエに入っています。

1884年からモンマルトルの一角に移り住みました。この頃のモンマルトルは歓楽街として大盛況で、バー、キャバレー、ダンスホールなどが林立していましたた。彼もはそれらの店へ馬車に乗って繰り出し、山高帽をかぶりステッキを持ち、一段高くなって店を見渡せるいつもの席でアブサンをのみながら客やステージ上の芸人の絵を描きました。

1886年、コルモンのアトリエにゴッホが入門してきました。この頃のゴッホは浮世絵熱が最高点に達した頃で、お陰でコルモン門下の間にも浮世絵ブームが生まれ、彼も浮世絵の魅力に囚われ、熱心に研究していました。

1890年には「サーカス・フェルナンドにて」と「ムーラン・ルージュのダンス」を発表して世間に広く知られるようになり、そして1891年「ムーラン・ルージュのラ・グリュー」が認められたことからポスター画家としての地位を確立します。彼はポスターという新しい表現の場で、ジャポニスムの影響のもとに大胆な造形世界を展開していきます。そして、この成功は、「ムーランルージュ」をモンマルトルきってのナイトクラブに押し上げ、彼は一躍時代の寵児となりました。夜の巷に潜む真実を描いた彼の作品には、社会から阻害され孤独な魂を抱えながらも、明るくたくましく生きる娼婦たちの、人間らしい美しさが溢れていたのです。

彼の人気は急上昇し1893年にはパリで初個展を開くに至ります。彼のポスターにしろ同時期に活躍したミューシャにしろあまりの人気でポスター自体の盗難も多かったようです。

しかしアブサンを好んだことから強い中毒になり病院に強制入院。1901年9月9日、わずか36歳で死去しました。


※アブサン
ニガヨモギなどの薬草の入った高純度のリキュール。催淫性が強いため現在はどこの国でも事実上製造禁止となっている。
ムーランルージュ
パリ・モンマルトルの丘の麓に立つ、世界一有名なキャバレー。1889年に、元肉屋が開いたものらしい。屋根の上に据え付けられた「赤い風車(ムーラン・ルージュ)」が目印。踊り子、道化師、歌手等、パリで一流の芸人たちを集め、店内の設計や装飾にも湯水のごとく大金を使い、店内は贅沢な雰囲気にあふれていた。ロートレックは開店当時からの常連客でした。
ディヴァン・ジャポネ
ロートレックの制作した石版ポスターの中でも有名な作品です。この絵の題名ディヴァン・ジャポネとは、パリにあった、お酒などをのむお店の名前です。この作品は、そのお店を宣伝するためのポスターでした。ディヴァン・ジャポネとは、「日本風のいす」という意味で、このお店の中は、日本風に飾られていました。このお店には、舞台があり、ダンスや歌のショーなどが催され、お客さんを喜ばせていたそうです。
ある日、ロートレックはコルモンのアトリエで親しくなったゴッホとゴッホの弟テオとロートレックの子供のころの親友モーリス・ジョワイヤンと再会ししました。テオはグービル画廊の支配人をしていました。また、彼のあとを受け継いだのが、ジョワイヤンである。後にジョワイヤンは、ロートレックが亡くなった後も彼の作品を管理し、彼の故郷のアルビに美術館を作っています。

ロートレックは、その後グービル画廊へ足を向けるようになった。1890年にグービル画廊は、浮世絵と日本の絵本(浮世絵絵本)を展示した。ロートレックはジョワイヤンを手伝って、一緒にこの展示会の準備のために働いた。19世紀末に日本芸術がフランスに紹介されると、印象派の画家たちが夢中になった。ロートレックはゴッホと同じように浮世絵と巡り会い、その魅力に囚われ、熱心に研究したのでした。

1894年9月ジョワイヤンはロンドンで歌麿展を開催しました。ロートレックも同行し、再び浮世絵の収集に没頭すると同時に、墨で一連のデッサンを描いています。その一つに「広重の手法による隅田川の風景」がありますが。この作品は、1972年の「世界の文化と現代芸術展」で盗難にあい、その後発見されていません。
ロートレックは一段高くなって店を見渡せるいつもの席でアブサンをのみながら客やステージ上の芸人の絵を描いていました。店の人気歌手イベット・ギルベールはこんな言葉を残しています。「小さな怪物さん、あんまり私を醜く描かないでくださいな。これではみんなの笑いものです」なぜ醜く描くのか?ロートレック曰く「なぜと申しますに、彼女たちはみんなこうだからなのですよ」しかし、自分自身が一番醜いのだと彼はそう思っていたのだといわれています。

11月


24日
バルフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza)

(1632〜1677)

オランダの哲学者。

ユダヤの富裕な商人の子としてアムステルダムに生まれました。ユダヤの教育を受けて、中世のユダヤとアラビアの哲学を研究し、その後、ヨーロッパの思想にふれ、自然科学や数学にも親しみ、ことにデカルトの哲学に興味を持ち、熱心に研究しました。

そして、「自然の中にある普遍的な法則」こそが唯一の「神」であると説いたため、ユダヤ教会から追われ、更には命までも狙われるようになりました。

そのため、彼は諸所を転々とし、ハーグに住んでハイデルベルグ大学の先生として招かれたりもしましたが、これを断って、当時最先端の技術であるレンズ磨きや、個人教授をしながらも、自らの思想を深めていきました。

その思想は汎神論(はんしんろん)といわれ「我々の周りにあるものは全て神のあらわれである。自然が様々の姿や働きを示すのは神の永遠の力によるものである。全ての物体や精神は属性であり、神がその実在である」と説いたのです。

しかし、当時、彼は危険人物とされ、であったようです。1670年には、著者名を偽り、さらに発行元をドイツと偽って「神学・政治論」を出版しましたが、著者の名はたちまちつきとめられ激しい排斥にあっています。

そして、彼の1661年から書き始めた「エチカ」が、1675年、43歳のときに完成しましたが、その後しばらくして彼は1677年2月21日の午後、肺結核で亡くなりました。彼は死期が近づいても、落ち着いていて、自らの草稿や書簡を整理したといいます。彼の遺体は友人たちの手によって葬られ、その後、友人たちの手によってひそかに編集された「遺作集」が出版されました。

著書に「エチカ」「知性改善論」「倫理学」「国家論」などがあります。
彼は、肉親との縁が薄く次々と悲しい別れを体験しました。まず6歳のときに実の母を失っています(9歳のとき再婚)。17歳のころには、父の事業を手伝っていましたが、兄イサークをなくし、19歳のときには姉ミリアムを、20歳ときには継母を、22歳の時にはついに父親を失ってしまいました。そして、24歳のときには、ユダヤ教団から破門され、彼は社会から完全に孤立してしまったのです。
彼が、教団から破門宣告を受けた時、彼は何者かに短剣を持って襲われましたが、幸い着衣を着られただけで免れたといいます。そして、彼はその切られた服を生涯記念として保存していたそうです。
「神学・政治論」では、宗教に対する疑問が語られています。

「なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう」
「なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「求めて」闘うのだろう」
「なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう」」


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