11月


23日
オットー1世(大帝)

912〜973

ザクセン朝第2代のドイツ王、初代神聖ローマ皇帝

彼の父、ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジャール人・スラブ人の侵入を撃退して、国内の結束を固めました。また「ドイツ王国」の名称を用いたので、ハインリヒの即位をもって国家としての「ドイツ」が成立したと見なされています。

父ハインリヒ1世は、国民の信頼を得ていたので、彼の死後、子のオットー1世が諸侯の選挙によって東フランク王に選ばれました。

彼は、即位すると、国家の統一に力を注ぎ、933年と特に955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破し、その西方進出を阻止するとともに、オストマルク辺境領(後のオーストリア)を置いてその後の侵入に備えました。

さらに、国内では敵対する諸侯を抑えて中央集権体制の確立に努めましたが難航し、そこで、教会や修道院領を王領とし、司教や修道院長の任命権を握り、聖職者を国王の官僚とし、彼らを王権の支柱とする政策「帝国教会政策」を採用して中央集権体制の確立をはかろうとしました。

彼は、帝国教会政策を進めるために、3回にわたるイタリア遠征を行ない。2回目の遠征の時、962年に教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の冠を授けられ、「オットー大帝特権状」をもって教皇の世俗的権力を確認し、皇帝、教皇間の関係を規定しました。

これが「神聖ローマ帝国」(962〜1806)の起源となります。この国は最初は単に「ローマ帝国」と呼ばれていたのですが、13世紀の中頃以後「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。 彼の治下には文芸も栄え、「オットーのルネサンス」と称されました。
ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現したのですが、その後のドイツ王は代々「ローマ皇帝」の称号を受けたことから、本国の統治よりもイタリア支配に熱中してしまいます。このためドイツ国内は分裂状態に陥っていったのでした。この歴代の神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ばれています。
ローマが東西に分かれてからの歴史

ローマはディオクレティアヌス帝の時代、巨大な帝国を支えきれなくなり、東西に分かれた。
ゲルマン民族が中央アジアのフン族に押されて大移動を始め、やがて476年、西ローマ帝国を倒す。
ゲルマン民族の国、フランク王国が勢力を拡大し、西ヨーロッパを統一。
西ローマ教会は、東ローマの東方教会と聖像礼拝問題で対立。
800年、ローマ法王レオ三世が、フランク王国のカール大帝をローマ皇帝に戴冠する。
フランク王国が三つに分裂、フランス、ドイツ、イタリアの元になる。
三国はそれぞれさらに分裂を繰り返すが、962年、ドイツを統一したオットー一世がイタリア遠征を行い、イタリア王位とローマ皇帝位をドイツに結びつける。これが神聖ローマ帝国の始まりである。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に