11月


18日
カール・マリア・フォン・ウェーバー

(1786〜1826)

ドイツの作曲家

北ドイツのオィティンで生まれました。父親は、興行師(楽団の楽長)で、母はオペラ歌手でした。一家そろって各地を巡業し、各国の歌劇場を訪ねてオペラに親しみ、幼いときから音楽に親しんでいました。

13歳の時からピアニストとして演奏会に出演し、わずか15歳にして最初のオペラ「ペーター・シュモール」を作曲します。 それからも多くの歌劇を作曲しそれを上演し、また、ピアニストとしても活躍しました。

1813年、プラハ歌劇場の指揮者となって歌劇を進歩させ、1816年にはドレスデンの宮廷歌劇団の指揮者となり、なくなるまでその指揮者をつとめました。

そのかたわら作曲を続けてドイツの歌劇を盛んにしました。なかでも、民話をもとにロマン的な管弦楽の色彩を駆使した不滅のオペラ「魔弾の射手」は最初のドイツ国民歌劇で、1821年ベルリンでの初演以来大成功を収め、今でも広く各国で上演されています。

その後も、病におかされながら「オイリアンテ」「オベロン」を上演。その他ピアノ曲、すぐれたホルンやクラリネット用器楽曲など多数を作曲しました。彼の作風はかの有名な作曲家ワーグナーに大きな影響を与えたといわれています。

1826年に、招かれてロンドンで歌劇「オベロン」を上演しましたが、しかしそのままロンドンで亡くなってしまいました、40歳でした。
彼は思い切った改革をいくつか行っています。オーケストラの配置を変えたこともそのひとつで、それまで手前に木管楽器、後ろに弦楽器という配置だったのを、現在の配置に近いものにしたのです。また、指揮棒というものを使い始めたのも、彼が最初だといわれています。
じつは、ウェーバーは、モーツァルトの妻コンスタンツェの従弟という間柄でした。
オペラ「魔弾の射手」
北欧の“魔弾の射手”伝説を素材として書かれたもので、当時ドイツ領であったチェコのボヘミアを舞台としています。護林官クーノの娘アガーテと、青年マックスは愛し合っていましたが、父クーノが、射撃競技会の優勝者に娘を与えると宣言したため、最近射撃の腕が鈍っているマックスは気が気ではない。そうしたマックスに、仲間のカスパールは、言葉巧みに悪魔に魂を売って、魔弾の射手になれば、百発百中の魔弾が手に入るとそそのかす。悪魔から魔弾を授けられたマックスは、首尾よく優勝するが、最後の一発が、カスパールに当たり、アガーテも気を失って倒れる。非を悔いたマックスは、アガーテとめでたく結ばれる。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に