11月


17日
本田宗一郎(ほんだそういちろう)

1906〜

静岡県磐田郡光明村の腕利きの鍛冶屋の長男坊として生まれました。16歳で高等小学校を卒業し、自動車修理会社のある東京に丁稚奉公に行きました。最初は子守りと掃除ばかりで、苦労の連続でしたが彼は「物事は考えようだ。毎日こうして自動車を眺め、その構造を見ていられるだけ、幸せではないか」と考えて、兄弟子たちの仕事を必死で観察したのでした。

そして、1年ほどの歳月が流れ、とうとうスパナを握らせてもらえるようになると、彼の本領が発揮されます。彼は手先が器用な上に勘がよく、遊ぶよりも自動車が好きで、朝早くから夜遅くまで、無我夢中で誰よりも貪欲に知識と技術を吸収し、ついに21歳で独立したのでした。

当時の自動車は輸入車ばかりで、一度故障すると海外から部品を取り寄せなければならず、修理に時間がかかり運送業者などは非常に困っていました。そんな状況中で、部品などを自分で設計して器用に作り上げ、どんな故障でも迅速に直す彼の会社は、たちまち繁盛したのです。

その後彼は、何かこの手でオリジナルのものをつくりたいと、周囲の反対を押し切って自動車の重要な部品であるピストンリングの製造へ転換しました。ところが、3万本試作した50本を厳選して納品したうち、3本しか合格しないというありさまでした。

しかし、勉強嫌いだった彼が、技術だけではなく理論を基礎から勉強しようと、浜松工業高等学校(現静岡大学工学部)の聴講生となり、更に、大学、研究所を数年間渡り歩いて研究を重ね、その間に特許を28件もとり、ついに大量生産に成功したのです。それは、すべての資金を使い果たし、奥さんが質屋通いする倒産寸前の頃でした。

そして、戦後の何もない混乱の中、部品から自動車を、しかも「日本一ではなく世界一の自動車」を創ろうと本田技術研究所を設立したのでした。

そして、自転車の補助エンジンから始めてオートバイ生産に着手し、本格オートバイ、ドリーム号を開発し、オートバイ・ブームを起して急成長しました。特に1958年発売のスーパーカブ号は、生産台数2000万台以上というロングセラー商品となっています。1959年からはオートバイの国際レースにも参加し。1963年には念願の4輪車製造に進出。1964年よりF1レースに参加し、「ホンダ」の名を世界的なものにしました。そして1973年「会社は一族のものではない」と、社長を引退、そのさわやかな引退ぶりは脚光を浴びました。

平成元年には、日本人として初めて米国の自動車殿堂入りをはたしましたが、平成3年8月肝不全により亡くなりました。84歳でした。
はじめての本格的オートバイの試作車が完成したときのこと、やっと出来た試作車を囲んで皆で、このオートバイに名前を付けようとなったが、なかなか良い案が浮かばない。その時誰かがつぶやいた、「夜に日を継いで頑張ってやっと試作車が出来た。今は名前で苦労するなんてまるで夢のようだ」

その時本田宗一郎が言った「おおそれだ、夢だよ。この車にみんなの夢を賭けようじゃないか、ドリーム号にしよう」こうして2サイクルのドリーム号D型が誕生したのでした。
本田宗一郎語録

何かを発明しようと思って発明する人がいたらお目にかかりたい。
自分が困ったときに、それを解決するために知恵を出すのが発明といってさしつかえないでしょう。
 
人間というのは困らなきゃだめです。絶対絶命に追い込まれたときに出る力が本当の力なんだ。
人間はやろうと思えばたいていのことはできるのです。

人間が進歩するためには、まず第1歩を踏み出すことである。ちゅうちょして立ち止まっていては駄目である。なぜなら、そこにどんな障害があろうと、足を踏み込んではじめて知れるからだ。
失敗は、その1歩の踏み込みだと思う。 前進への足跡だと思う。

大体おとなというのは過去を背負っている。過去に頼っていい悪いを判断するから、百八十度転換した時には非常にあぶないイデオロギーで現在をみつめる。
私はこれが一番危険であるとみた。おそらく若い人も納得できないと思う。

設備とかそういうものは金を出せばどんなにも変わる。ところが一番変わらないのは、考え方、いわゆる石頭だ。これは金を出してもどうしても変わらない。

ただで変えられるものを変えずにいて、若い物を悩まし続けなければやっていけない。百八十度転換しなければならないわれわれ年輩の人が悩もうとせずに、若い物を悩まし続けているのが現在ではないか。 

私が汗まみれになって働いていたから、本田技研は成功したというのは、私にだけ通用する事であって、ほかの人には通用しない。
その人,その人によって、社長のやり方が違うのは当然である。 私は金をいじるのは不得手だから、人にやってもらう。
私は不得手なことはやらず、得手のことしかやらないことにしている。
 
人生は「得手に帆あげて」生きるのが最上だと信じているからである。

わが国には「サルも木から落ちる」と言う言葉がある。慢心とか油断へのいましめである。人間には絶えずついてまわる心のゆるみだが、このための失敗には、私は寛容の心をもちあわさない。

なぜかといえば人間に許される失敗というものは進歩向上を目指すモーションが生んだものだけに限るのだと思うからだ。
木登り以外に取り柄のないサルが木から落ちてはいけないのである。

しかし私は、サルが新しい木登り技術を学ぶために、ある「試み」をして落ちるなら、これは尊い経験として大いに奨励したい。

11月


17日
イサム・ノグチ

「ほしいのは照明器具ではなく、明かりである」

(1904〜1988)

アメリカの彫刻家

カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。父は詩人の野口米次郎、母はアメリカ人作家のレオニー・ギルモアでした。家族は彼が2歳の時に日本に渡り、幼少期を日本で過ごしました。

その後、14歳で単身渡米し、ニューヨークに渡った彼は、コロンビア大学医学部に在籍するかたわら、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校で彫刻を学びました。

彫刻家として身を立てる決心をしたノグチは、1927年、奨学金を得てパリに留学し、抽象彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシの助手となりました。

そして、1929年には、最初の個展をひらき、その後も、北京で毛筆デッサンを学び、来日して、京都の陶工・宇野仁松に陶芸を学んでいます。帰米後の1938年、 ロックフェラーセンターのステンレススチールの作品がレリーフ・コンペ ティションで一等獲得、また公園の設計や家具デザインも行うと共に、彼は、著名な振付家のマーサ・グラハムやジョージ・バランシンの依頼で舞台衣装や彫刻的な舞台セットのデザインも始めました。

しかし、第二次大戦中は抑留されてしまいましたが、戦後彼は石彫をはじめ、来日することも多くなり、1950年に慶應義塾大学で父・野口米次郎の記念室と庭園をデザイン し、2年後の1952年には、 鎌倉の北大路魯山人所有の日本家屋に住み、作陶を学び。女優・山口淑子と結婚しています。また同年神奈川県立近代美術館にて個展を開催しています。

その後も、彼は、パリ、ユネスコ本部の日本庭園を完成させたり、IBM本社のための庭園を設計したり、1970年の大阪万博のために9つの噴水を制作したりと、世界的中を舞台に活躍をつづけました

彼は各地で、彫刻、モニュメント、環境設計を続け、文字通り「地球を彫刻した男」と呼ばれ、世界の美術史に名を刻む偉大な彫刻家となりました。1985年には、ニューヨークにイサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアムが開館しています。

1988年12月30日、ニューヨーク大学病院にて、心不全のため亡くなりました。84歳でした。
皆様は竹ひごに和紙をはったランプシェードをご存じですか。実は、このランプシェードは、提灯をヒントに彼によってつくられたものなのだそうです。1951年広島の平和大橋の設計のために来日したときに、岐阜で提灯工場を見学し、提灯が作られていく工程や、和紙と竹ひごという素材に強くひかれ、この和紙を使ったランプシェードをデザインし、「AKARI」と名づけたということです。

彼は、亡くなるまでの間、この和紙のランプシェードを作り続け、その数は200にもおよぶといわれています。
彼の作品や、彼のことを、もっと詳しく知りたい方は下記のHPに行って見ては?どちらも、すばらしいHPでした。

  イサムノグチ庭園美術館
   http://www.isamunoguchi.or.jp/index.htm

  ISAMU NOGUCHI PRIVATE TOUR
   http://www.consolstile.com/noguchi/


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