11月


16日
北村透谷(本名 門太郎)

(1868〜1894)

明治時代の詩人、評論家

神奈川県に生まれ、東京専門学校(後の早稲田)に入りましたが、中途で退学し、自由民権運動に参加するようになりました。大政治家になることが志望でしたが、しだいに文学に興味を持ち、22歳のときに、日本最初の革命的ロマン主義の長詩といわれる「楚囚の詩」を発表しました。

この詩は全編342行、16節からなる長編詩で、内容は政治犯が獄舎に捕らえられ、さらに、自らの恋人・同志も投獄されてしまいますが、最後に自分が獄舎から解放されるまで、その間の自らの肉体的苦痛や精神的苦悩を物語として取りまとめたものです。

彼自身が獄舎に投じられたとの記録はありませんが、じつは18歳の時、大井憲太郎らの朝鮮革命計画の一端を担う資金調達の強盗計画に誘われたがこれを拒否し、その後同志と決別したといわれています。このような政治活動との関わりが、彼にこの詩を作らせる契機となったのではないかといわれています。

続いて壮大な宇宙感覚に終末観,厭世観をこめた劇詩「蓬莱曲」を書き、また恋愛の純粋性を述べた評論「厭世詩家と女性」や「わが牢獄」など多くの作品を発表し、明治26年には島崎藤村らと雑誌「文学界」を発刊して、日本の初期のロマン主義運動の指導者となりました。

明治の文学、思想界の先覚者として活躍しましたが、文学の理想と現実の違いに深い悩みを抱いて、わずか25歳で自殺してしまいました。

彼は天才的才能を持ちながら病的なほど神経質で、文学や思想について苦しみ、さすらいながら、その短い一生を終えたのでした。
「楚囚」とは中国・春秋時代、楚の鐘儀が晋に捕らえられた後も、楚国の冠をつけて故国をわすれなかった故事から、他郷においてとらわれの身となった囚人をさすそうです。
彼の論文のひとつに「処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察)」という評論があります。これは、明治二十五年初出の小論で、処女の純潔を賞賛し、その例として伏姫をとりあげ、伏姫物語に表れる因果・宿因について論じているそうです。
近年、この論文は、フェミニズムの視点から批判されることも多いそうです。
ほたる

   夕べの暉(ひかり)をさまりて、
          まづ暮れかかる草陰に、
   わづかに影を点(しる)せども、
          なほ身を恥づるけしきあり。
   羽虫を逐(お)ふて細川の、
          浅瀬を走る若鮎が、
   静まる頃やほたる火は、
          低く水辺をわたり行く。
   腐草(ふそう)に生をうくる身の、
          かなしや月に照らされて、
   もとの草にもかへらずに、
          たちまち空に消えにけり。


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