11月


15日
坂本 竜馬

1835〜1867

江戸末期の志士

四国の高知(土佐)に生まれました。家は豪商才屋家の分家で、遡ると戦国時代の武将明智光秀の娘婿左馬之助の子太郎五郎にいきつくといわれます。子供の時はよくおねしょをしたり、他の子供にいじめられたりして親を心配させましたが、14才で剣術を始めるとメキメキ頭角を現わし、17才の時剣術の修行をするために江戸へ向かい、北辰一刀流千葉定吉道場に剣を学んで免許皆伝となります。帰郷後、土佐勤王党が結成されるとこれに加盟し、勤王の志士として活動をはじめましたが、藩の弾圧を受け、翌年には脱藩し江戸にむかいました。

そのころの日本は、ペリー来航以来からの大騒ぎが続いていました。彼は、幕府が諸外国の言いなりになっているのは、「西洋かぶれの勝海舟がいるからだ!」と、勝海舟を斬りに行きましたが、勝は地球儀を取りだして彼に世界情勢を説き、それ以来、彼は勝の弟子になったのです。そして、彼の開明的思想の影響を受けて海運貿易の必要性を感じ、やがて薩摩藩の援助で海運貿易会社「亀山社中」のちの「海援隊」をつくりました。

この頃の志士達は、初めは徳川幕府を倒そうという考えは持っていず、天皇を中心に攘夷をしようという考えでした。しかし、日本と比較して欧米諸国の実力がどの程度進んでいるか理解していた志士は少なく。彼も初めは攘夷の考えを持っていましたが、黒船を見たり、川田や勝海舟と話をし、日本は西欧諸国に侵略されないように航海術を学び海軍を作らなくてはいけない、西洋諸国と貿易をして日本の国力を強めなくてはいけない、ということを認識するようになったのです。

彼は「薩摩と長州。この2つの雄藩が争っていたのでは、国力がおとろえ西洋諸国にねらわれるおそれがある。薩長両藩を結びつけて、腰ぬけの幕府をのぞいた統一国家をつくることだ」と考え、両藩の仲介にあたり薩長同盟にこぎつけます。これには亀山社中が大きな役割を果たしました。当時、幕府は長州藩を危険視して、武器の購入を禁止しました。そこで、亀山社中が長州が欲しがっていた軍艦を薩摩藩を通してイギリスから購入して長州藩に提供し、その代わりに米が不足していた薩摩藩に長州の米を提供してこれが縁となって薩長同盟が成立し、両藩は「倒幕」へと足並みをそろえたのでした。

さらに土佐藩の後藤象二郎と協力して大政奉還を推進し、これを成功させましたがその1か月後の1867年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎とともに何者かに暗殺され32歳の生涯を閉じた。くしくも、彼の誕生日のできごとでした。
同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもは、その時代的制約によって、いくらかの類型にわけることができる。型破りといわれた長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
 竜馬だけが、型破りである。

この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちのなかで、一人も類例をみない。日本史が坂本竜馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった。なぜなら、天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか。

 私は、年少のころからそういうことを考えていた。
(「竜馬がゆく 立志篇 (あとがき)」文藝春秋 司馬遼太郎)
薩長同盟が成立した翌日の夜中のこと、京都伏見の寺田屋に泊まっていた竜馬が、幕府の役人におそわれるという事件がありました。これが寺田屋騒動です。

このとき、寺田屋の女中、お竜は入浴中でしたが、役人の気配に気づいて、湯文字一枚のままの姿で、竜馬に知らせに行きました。知らせをうけた竜馬は、ピストルで応戦。このときに竜馬は左の親指と人差し指を負傷しましたが、お竜の機転によって、命だけはたすかりました。そして、キズをいやすために、お竜をともなって鹿児島に温泉旅行に出かけたのです。

これが日本人として最初の新婚旅行といわれています。
竜馬が他の志士達と大きく違っていた点は、日本の将来に対する見方でした。他の志士達は、徳川幕府を如何にして倒すか、ということしか考えていませんでしたが。竜馬は幕府を倒した後の日本をどうするかを真剣に考えて具体的に「船中八策」という形で示し、それが後に「五カ条の御誓文」という形で実現されています。

船中八策とは、幕府が大政奉還を受け入れた場合、今の朝廷側に新政府を担当する能力が無いことを知っている土佐の坂本竜馬が長崎から大坂へ行く船の中で、その運営の方法を明らかにした方策です。

第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事
第二策 上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事
第三策 有材の公卿、諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事
第四策 外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事
第五策 古来の律令を析哀し、新たに無窮の大典を選定すべき事
第六策 海軍よろしく拡張すべき事
第七策 御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
第八策 金・銀・物貨よろしく外国と平均の法を設くべき事

これを土佐藩家老後藤象二郎に説き土佐藩、幕府を動かして、大政を奉還させる事に成功したのです。その後、これに使われた用語はやがて維新の五箇条の御誓文に表されてきます。
慶応三年(一八六七)四月、亀山社中が海援隊となって最初に使用した船がいろは丸である。この船は薩摩藩五代才助の周旋によって、日数十五日一航海五百両を支払うということで、大州藩より借りたものである。

この年の四月十九日、いろは丸は鉄砲、弾薬、その他の荷物を満載し、長崎港を出帆した。乗組員は「今日をはじめと乗り出す船は、稽古はじめのいろは丸」と声高らかに歌いながら、張り切って精出していたのですが、二十三日午後十一時頃、いろは丸が讃岐箱の崎の沖にさしかかった時、折からの濃霧の中から紀州藩の明光丸が現われたのです。
いろは丸は舵を左に切って衝突を避けようとしたが、明光丸は舵を右に切ってそのまま進んだため、いろは丸の右船腹に衝突。このためにいろは丸は沈没してしまいました。これが日本海難史上初めての、蒸気船同士による衝突事件となりました。
この事件に対して竜馬と象二郎は徳川御三家の威光をかさにきた紀州藩に対して、毅然たる態度で理論と巧みな弁舌で臨み、さらに竜馬は世論操作をして、長崎市民の同情を海援隊側に導き、紀州を屈服させ、調停へと持ち込んだのでした。
最終的に、この事故の賠償金は七万両となり。このうち大州藩には船価及び海援隊への貸金合計四万二千五百両を返還したことが、佐々木高行日記に記されている。また海援隊には、一万三百四十五両が渡されています。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に