11月


14日
クロード・モネ(Claude Monet)

1840〜1926

フランスの画家、マネと並ぶ印象派の中心人物

パリの下町の食料品店の息子として生まれ、ノルマンジーの港町ルアーブルで育ちました。若い頃から画家を志しましたが、父と不和になり、経済的に苦しい状況が続きました。その後、21歳でパリ美術学校に入り、ルノアールやバジールと知り合っています。その後クールベやマネとも交際しました。

24歳の時に初めてサロンに入選、1872年パリの近くのアルジャントゥイユに落ち着きセーヌ川や両岸の風景を書き、印象派の様式を作り上げました。1874年に仲間と展覧会をパリで開きましたが、あまり評価されず、彼の出品した12の作品のうち「印象−日の出」の題名から批評家が嘲り笑って、彼らを印象派と名づけました。

その後、1889年にロダンとの合同展で成功するまでの間、長い困窮生活が続きました。彼の絵が売れ始めたのは、四十歳を過ぎた頃でした。ようやく経済的な安定を得た彼は、家族とともに豊かな自然とみ力的な水辺の風景にめぐまれたジヴェルニーの、広い庭を持つ家に移り住みました。

1893年頃から彼は北斎に惚れ込んだりしたこともあり日本庭園に興味を持っていた彼は、新しい自宅の庭にわざわざ日本から取り寄せた桜・紅葉・牡丹などの花を庭に咲かせました。そして池を作り、睡蓮を育て、太鼓橋を架けていたそうです。そして、毎日自分の築いた庭園を何時間も眺めながらも光のうつりかわりを描いたのです。これがモネの有名な睡蓮です。

しかし、1908年頃から、徐々に視力が衰え始めます。睡蓮の連作を描きはじめたてから約11年目、巨匠と呼ばれ地位を築いた彼を襲ったのは、自然の光を愛した画家には致命傷ともいえる「白内障」という病魔でした。

しかし、彼はあきらめませんでした。色覚を失う直前の1923年。なんと82歳の高齢にもかかわらず、白内障の手術を敢行したのでした。そしてなおも86歳の生涯を終わるまで、制作を続けたのです。彼を製作に駆り立てていたものはいったいなんだったのでしょうか。
印象主義
19世紀後半から20世紀初頭にかけてフランスを中心に全ヨーロッパに起こった絵画、音楽表現上の一傾向で、文学、演劇にも影響を与えました。絵画では、対象を精細に写すよりも、対象が画家に与える印象を描くべきだとし、物の固定色を否定し、色彩と光線を重んじて表現しました。
彼が26歳の時に長男ジャンが生まれ、2年後その母親カミーユと結婚しています。そして困窮の生活の中債権者に追われてモネとカミーユ、そして息子のジャンはさまざまな土地をわたり歩くのでした。

1876年に彼は、美術収集家エルネスト・オシュデと出会い、一時期彼の家に滞在して絵を描いていました。1878年には次男ミシェルが生まれますが、この年オシュデが破産、失踪してしまいます。一転してオシュデの妻のアリスと6人の子供が彼の家に転がり込んでくることになります。

その翌年なんと妻カミーユが癌のため死去。彼は苦労を共にしてきた愛妻カミーユが、2人の子供を残して32歳という若さで死の床についたとき。彼は彼女のデスマスクを絵として残しています(「死の床のカミーユ」)。冷酷だという評価もありますが。その絵を見れば彼の哀しみや、彼女への愛情が伝わってくるような気がします。画家はわずかな幸せしか与えられなかった最愛の妻の全てをこの絵に描くことで、彼の想いを昇華させたのでしょうか。

その後、更なる困窮生活が彼を襲いますが、彼は自分の2人の子供、アリスの6人の子供の教育のことも考えて1883年にジヴェルニーに家を借りています。そして1892年にはアリスと結婚しました。

11月


14日
貝原益軒(かいばら えきけん)

(1630〜1714)

「老後一日も楽しまずして、空しく過ごすはおしむべし。
 老後の一日、千金にあたるべし。」

江戸時代の儒学者

福岡黒田藩の医者の五男として生まれました。幼少の頃より勉学に優れていましたが、家が貧しく父の職が変わるたびに町内や山村、農村を転々としていたそうです。

その後、19歳で黒田藩に仕えましたが、2年後に藩主の怒りにふれて以後7年もの間、浪人生活をおくることになります。27歳の時に、父の取りなしで出仕できるようになりましたが、この長かった浪人生活の体験から、後に「民生日用の学」を著したともいわれています。

藩に戻ってからは、藩費による京都遊学で、多くの学者と交わり、儒学の研究に専念するとともに、本草学を学び、35歳で福岡に帰ってからは、朱子学派の儒者として藩主や藩士に儒書を講義するとともに、亡くなるまで数多くの著述を残し、また旅を愛してすぐれた紀行文を残すなど、経学のみならず、医学、民俗、歴史、地理、教育などの各分野で先駆者的業績を残しました。

特に、その著「益軒十訓」は、かな書きのわかりやすい教訓書で、庶民教育家として彼は世人に大きな感化を与えたと言われています。また「養生訓」等は教育書として広く読まれ、「大和本草」や「菜譜」の本を著して当時盛んになろうとしていた博物学をいっそう前進させました。

彼は自らの学問を「民生日用の学」として、独特の精神修養法を提示しましたが、1714年8月27日に亡くなりました、85歳でした。
養生訓より
「世間には財産や地位、そして所得ばかり求めて、ひとにへつらったり仏神に祈ったりする者が多い。が、そうしても効果はない。無病長生を願って養生をし、身を保持しようとするひとは稀である。財産や地位や所得は外にあるもの。求めても天命がないと得られるものではない。無病長生はわが内にあるもの。求めるならば得られよう。求めても得難いものを求めて、得やすいことを求めないのはどうぢたことか。愚かなことである。たとえ財録を求めることができても、多病で短命ならばどうにもならない。」
彼の残した名言の数々

善を誇れば善を失い、能に誇れば能を失う。

富に三等あり、家の富、身の富、心の富これなり

小にして低ければ小成に安んじ、大にして高ければ大成を期す。およそ事は上を学びて下に至るものなり。故に天下一等の人たるを志すべし。

知って行わざるは知らざるに同じ

それ女子は、生長して他人の家へ行き、舅姑に仕えるものなれば、男子よりも親の教えゆるがせにするべからず、父母寵愛して、ほしいままに育てぬれば、夫の家に行って、心きままにて、夫にうとまれ、又は舅の教え正しければ、たえがたく思ひ、舅を恨みそしり仲悪く成って、終に追出され、恥をさらす。女子の父母、わが訓へなきことをいわずして舅夫の悪きことのみ思ふは誤りなり、これみな女子の親の教えなき故なり。 「女大学」

善人にまじわれば、その善を見ならい、善言を聞き、わがあやまりを聞きて、益多し。悪友にまじわれば、はやく悪にうつりやすし。必ず友をえらびて、かりそめにも悪友に交わるべからず。
貝原益軒の養生訓には人生の楽しみ方が書いてあり、それは「道を行い、善を楽しむ。」「病なく気持ちよく、生活を楽しむ。」「長寿を楽しむ。」ということだそうです。しかし、彼自身は39歳の時に22歳も年下で美人と評判のお初という娘と結婚し、今でいうグルメとして美味しいものを食べて過ごしたということです。また晩年の「防備録」には、「うまいものリスト」が細かく書き込まれてたということだそうです。


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