11月


11日
乃木 希典(のぎ まれすけ)

1849〜1912

明治時代の陸軍軍人

江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれました。彼は幼名の無人〔なきと〕を「泣き人」と呼ばれてからかわれたように、体があまり丈夫でなく武道よりも学問を好む少年でした。そんな彼も明治に入って軍人になると、二十二歳の若さでいきなり陸軍少佐になり、明治8年、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得に任用されました。

明治10年、西南戦争が始まると、彼もこれに参戦しましたが、優勢な薩軍に押された彼は連隊旗手を斬殺され連隊旗を奪われ負傷。天皇の精霊が宿っていると神聖視していた軍旗を奪われたことは、彼にとってこれほど辛く、不名誉なことはありませんでした。「待罪書」を提出して処分を待ったのですが、軍当局は乃木の責任を問わず、逆に、その自責の姿が軍当局から好意をもたれ、次々と昇進を重ねるようになります。

その後、彼は休職・復職をくり返していましたが、明治37年日露戦争が勃発してしばらくすると、中将となっていた彼は第三軍司令官に任命されました。第三軍の任務は旅順の攻略で、後に旅順艦隊の無力化という大きな目的が付け加わったことで第三軍は是が非でも旅順を落とさねばならないようになったのです。

旅順での戦いは、悲惨でした。当初、3日もあれば落ちると思われていた一要塞のために、半年近い歳月となんと6万人もの死傷者を出したのです。彼のあまりの無謀さに世論も彼を非難し、大本営も更迭を一時決意します。しかし「やめさせたら乃木は生きてはおるまい」という明治天皇の一言で更迭は流れます。

その後、児玉源太郎総参謀長の助けもあり、ようやく旅順を陥落させることに成功。二〇三高地陥落と旅順艦隊の全滅でロシア側の戦意は急速に失せ、ロシア関東軍司令官アナトール・ミハイロウィッチ・ステッセルは明治三八年年一月一日、降伏の軍使を派遣した。翌二日、双方の代表が開城規約文書に調印。半年以上にわたった旅順攻略戦はようやく幕を閉じた。日本側戦死者一万五千四百人、負傷者四万四千人。 旅順に入城した彼は敵将ステッセルと水師営で面会。この時の彼の武士らしい敵将を思いやる態度が世界に報道され、絶大な賞賛を浴びることになります。

日露戦争後、乃木は名将として称えられました。二人の子を失った白髯の老将に大衆は共感を抱き、自らの代表者と見なしたのでした。明治40年には学習院院長に任命され、後の昭和天皇を始めとする皇族の子弟の教育にあたったりしています。

その後、明治天皇が亡くなり、年号は大正となります。そして大喪が行われた9月13日、彼は明治天皇の葬列が宮城を出たその時に妻の静子とともに自殺し、明治天皇に殉じました。彼は自分一人で死ぬつもりでしたが、子亡き今、独り身となる妻静子は従うことを願ったのです。遺書には西南戦争で軍旗を失い、今日ようやく死処を得たことを殉死の理由として記していました。

乃木の指揮による旅順攻略戦の第一回総攻撃は死傷一万五千八百人という犠牲を出し、なおかつ要塞にかすり傷一つ付けられないという惨憺たる結果に終わります。

しかし、乃木は一度目の失敗に懲りず、全く同じ戦法で第二回総攻撃を行い、ふたたび四千九百人もの死傷者を出してしまいます。

このころ、海軍からは「203高地(旅順郊外の高地)を攻撃せよ」とか東京からも「28サンチ砲を送ってやるから」といった提案がなされますが、乃木軍参謀達はこれを無視してしまいます。

その後「203高地」の重要性を認めて攻撃にとりかかりますが、その時にはロシア側も万全の用意を固めており、またいたずらに犠牲者を増やす結果になります。第三回総攻撃(数え方により第四回)では決死の「白襷隊」三千人まで繰り出して攻撃をかけますが、ほとんど要塞にかすりもしないうちに全滅する結果になります。(白襷がロシア側からの銃撃のいい目印になったとも言われています)

そうこうしているうちに死傷者は五万六千人を超えてしまったのです。
この危機的状況に、満州軍総司令部から、同じ長州人で友人の児玉源太郎総参謀長が出発しました。旅順につくやいなや、乃木から指揮権を委譲させ、自ら旅順攻略の指揮をとったのです。

第三軍の指揮権を奪った児玉は203高地へ攻撃の主力を集中、東京から持ってきた28サンチ砲で砲撃して敵の反撃を封じつつ総攻撃をかけることになります。この案に乃木軍参謀達は猛反発しますが、児玉に一喝されやむなく実行します。

まず児玉は重砲陣地の移動を命じ、二〇三高地の周辺陣地を制圧させ、続いて二〇三高地への集中砲撃を行います。28サンチ砲の一発218kgの砲弾だけでも2300も発打ち込み、二〇三高地の岩石は全て焼けた砂になったといわれています。そして、重砲の援護射撃の下で歩兵の突撃開始。12時間もの死闘の結果その日のうちに二〇三高地の山頂に日章旗がひるがえったのでした。

その後、児玉は山頂に砲兵の観測所を設置させ、港内の軍艦に二〇三高地越しの砲撃をすると数日で旅順艦隊は壊滅し、ついに第三軍の第一目的は果たされたのでした。

使命を果たした児玉はただちに元の職務に戻り、旅順開城の瞬間には立ち会っていません。乃木の功績とされた旅順攻略が、実は飛び入りの児玉の手によるものであったことは、後々まで公にされませんでした。
ロシア関東軍司令官アナトール・ミハイロウィッチ・ステッセルとの会見のとき、アメリカ人映画技師が会見の様子を活動写真に収めたいと願ったのですが、副官を通じて慇懃に断わりました。しかし、なおも各国特派員が撮影の許可を求めたので、「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは日本の武士道が許さない。しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」といい、ステッセル以下に帯剣を許したまま肩を並べて写真に収まったのです。外国人記者たちにとって、このいきさつそのものが事件であり、彼らの感動をあらわした電文と写真は世界に配信されたのでした。
乃木夫妻の殉死は壮絶なものでした。まず妻が先に自らを刺し、乃木がこれにトドメを指した上で、今度は乃木自身が見事に作法通りの切腹(十字に切り、自ら首を刺してトドメとする)したのです。その早朝に夫婦そろって写真を正装で撮り、遺書や辞世の歌まで残す周到さでした。乃木の殉死は世界中に報道され、乃木の神格化の道は決定的となります。そして「乃木神社」という彼を神として祭る神社も出来ることになります。
一夢庵さまより、掲示板に次のような投稿がございました。貴重なご意見なので、改めてここに紹介させて頂きます。

・旅順要塞は「欧州のもっとも強力な軍隊をもってしても3年は落ちない」といわれたほどに強固な近代要塞と化していたこと。
・その事実を大本営はほとんど掴んでおらず、過小評価していたこと。
・そのため乃木率いる第三軍は恒常的に兵力不足、砲弾不足に悩まされたこと
・第一回総攻撃において、当事最新の戦い方、大砲撃戦の後に強襲法による突撃をしていること。
・肉弾突撃による強襲法の選択は、早急に旅順要塞を落とすことを至上命題とされていたため、当然の選択であったこと。
・第二回の総攻撃においては、乃木は独断で兵力の損耗の少ない正攻法に戦略転換していること。
・28サンチ砲を無視したわけでなく、備え付けに一ヶ月ほどかかるとの試算がなされており、とても間に合わないから、と伊地知少将が断ったこと。
・203高地を攻撃しないことについては、乃木だけの判断ではなく、児玉をはじめとして満州軍の当初からの一貫した判断であったこと。
・203高地占領以前に、旅順艦隊は第三軍の砲撃によりその機能のほとんどを失っていたこと。
・203高地を占領したことで旅順要塞は落ちたのではなく、その後も一ヶ月近く激しい戦闘は繰り返されていること。
・指揮権移譲について、ソースとされる文書の著者が直接見聞きしたことではなく、また、公文書にも指揮権以上に関して一切の記載がないこと。

乃木という人は、生きている間も持ち上げられたり、おとしめられり……。死後に於いてさえも、同様に上がったり、下がったり……。見方によってまったく変ってしまいますね。だからこそ歴史は面白いのかもしれませんが。
 結局、言われるほどに軍事的に無能でもなかったが、逆に天才的な閃きもなく、平凡な大将、という位置が現在のところ当てはまっているようです。
 しかし、普通なら軍隊という組織が瓦解してもおかしくない程の被害が出る中で、なおも一般の兵たちは士気を保ち、突撃の命令を黙として受け入れたのは、乃木という大将のためならば命惜しくないとの思いからなのでしょうか?
それとも愛国心からか……。
 ただ、太平洋戦争にいかれた方の話を聞くと、上官が尊敬できないと士気は途端に下がるそうです。

本当に貴重なご意見ありがとうございました。2004.06.03


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