11月


10日
マルティン・ルター(Martin Luther)

1483〜1546

ドイツの宗教改革者

農民の出で鉱夫であったハンス・ルターの子として中部ドイツのアイスレーベンに生まれました。のちマンスフェルトに移住し、事業に成功を収めた父の期待を受けて、1501年エルフルト大学に入学し、1502年教養学士、1505年修士となり法学を学び始めました。

その年の7月2日彼はは親がいるメンスピルドを離れ大学があるエルプルツに向かいましたが、途中で落雷にあい、瞬間、彼は地に倒れてしまいました。そして気を失いながらも神に祈りました。「神様、どうか私を生かして下さい! 生かしてくださるならすぐ修道士になります。なにとぞ!」無事に雷を逃れることが出来た彼は、誓願に従って父親の反対を押し切りアウグスティヌス隠修修道会に入るのでした。

彼は真剣な修道院生活と聖書との取り組みの中で、キリストの福音に生かされる喜びに至りました。そして1517年10月彼は当時の教会で行われていた、いわゆる「免罪符」の習慣に対して「95ヶ条の提題」を公けにしました。教会側の神学者エックとの大論争で法王の権威を否定し、教会と完全に対立しました。

彼は、法王が出した破門状を焼き捨て、またドイツ皇帝カール五世とも対立しましたが、ザクセン候の保護を受けワルトブルグ城に隠れました。この間、彼は元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚(この結婚から3男3女が生まれています)して聖職者の家庭生活を認め、また新約聖書のドイツ語訳や賛美歌の作詞、作曲もしています。彼は、弱まっていく健康にもかかわらず大学での聖書講義、著作活動、改革の指導や牧会活動を続け46年心臓発作により亡くなりました。

その基本は「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という宗教改革のいわゆる三大原理です。神の前にすべての人は平等で、お金とか見せかけの努力ではなく、神様の恵み、イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、人は救われるというものでした。
クリスチャンは隣り人を愛することになっている。
そして、妻は一番そばにいる隣り人なので、最愛の人であるべきだ。マルチン・ルター

夫婦間での意見の食い違いはあったものの、ルターは家庭を非常に大切にしました。そして結婚前は、結婚を人間の身体的必要の一つとして語っていましたが、結婚後は、信仰を高める機会と考えるようになったそうです。
ルターはよくこう言ったそうです。
「妻は、夫が喜んで帰宅できるようにすること。夫は、自分が出かけるのを妻に残念に思わせること。」

主なる神は言われた。
「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
(聖書・創世記2章18節)
ボウリングそのものの歴史は古く、エジプトのピラミッドの中から大理石で作ったピンとボールが発見されているそうです。

その後、ボウリングは中世ドイツの僧院でのスポーツとして行われるようになり、やがて宗教改革の大立て物となったマルテン・ルターの手で9本のピンをダイヤモンド形に並べ、これを倒すというふうに"改革"されたのです。

それが今日のように10ピンボウリングになったのは、このゲームがドイツ人宗教家の手で新大陸アメリカに伝えられ、大流行を招いた結果、9ピンボウリングの禁止令が公布されてしまったのです。しかし、9ピンがいけないのなら、1本増やして10ピンにすれば良いのだろうと、ダイヤモンド形でなく、正三角形に並べて今日そのままのルールが制定されたのが1874年のことでした。
ルターの声は、ドイツをはじめ全ヨーロッパに伝わりました。しかし、当時のローマ・カトリック教会の大勢はこれを斥け、「ルターの仲間」と呼ばれ始めたこのグループは、やがて「ルーテル教会」と呼ばれるようになったのです。

 その後、この宗教改革運動に続いて各地で新しいグループが生まれ、多くのプロテスタント教会が出来ていきました。特にドイツから北欧にかけて広がり、その後それらの国の人々が新大陸発見とともにアメリカに移住し、アメリカ各地に自分たちのルーテル教会を形成していきました
ルターの宗教改革によって音楽も必然的に民衆のものとなり、万人祭司の精神で礼拝中にも会衆が讃美歌を歌うようになりました。それ迄の会衆はもっぱら聴き役で、実際の演奏は専門家である合唱隊や聖職者が受け持っていました。

11月


10日
フリードリヒ・フォン・シラー

(1759〜1805)

「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする。」

ドイツの詩人・劇作家

南ドイツの田舎町マールバッハに軍医の子として生まれました。彼は神学校を目指していましたが、領主オイゲン公に命じられて、軍人養成学校で法律と医学を学びました。

しかし、そこで心理学の例として学んだシェイクスピアの「オセロー」や、シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の時代の諸作品に触発され、卒業後の1781年に処女作「群盗」を書き上演されて、彼の名は高まりました

以後各地を転々としつつ戯曲、思想詩、歴史評論などを次々に発表し文名を高めています。1787年に彼はワイマールへ行き、そこでゲーテと知り合い、「ドイツ古典主義」と呼ばれる文学様式を確立してゆきました。また、彼の世話で、イエーナー大学の先生の職を得て、歴史を教えながら、多くの作品を書き上げ、大人気を博しました。

彼の作品には、三十年戦争を舞台した「ヴァレンシュタイン」、百年戦争を舞台にジャンヌダルクを描いた「オルレアンの乙女」、そしてスイスの独立を描いた「ウィリアム・テル」等があり。彼のこの作品以来伝説の人物であった十字弓の名人ウィリアム・テルが実在の人物とみなされるようになったほどでした。

彼は、一生をかけて自由の精神を求め続け、ゲーテと並ぶ偉大な作家となりましたが、1805年5月9日にワイマールで亡くなりました。45歳でした。
彼は、日本で年末に必ず歌われている、ベートーベンの第9交響曲の作詞者としても知られています。ベートーベンの、最初のスケッチには「われわれは不滅のシラーの歓喜の歌をともに歌おう」という歌詞が記されていたそうです。
「群盗」  「我に自由を与えよ、しからずんば死を」

無頼の生活を懺悔する手紙を父伯爵に送った主人公カール、しかし、その返事は親子の離縁状でした。盗賊の結成をたくらむ仲間は、絶望した彼を首領にまつりあげます。しかし、すべては兄の恋人アマリアと財産を手中にしようとたくらむ次男フランツの計略だったのです。

カールは自由と正義の復活という理想のもとに、盗賊として各所で不正な権力者と戦いながら、良心の苦しみにさいなまれていました。あるとき、仲間とともにひそかに故郷を訪れた彼は、弟の策略で幽閉されていた父を見つけます。そこで弟のたくらみを知ったカールは復讐を誓い立ち上がるのでした。

「崇高な犯罪者」を主人公としたこの作品の上演は観客に衝撃を与え、この作品を発表直後に、盗賊団になりたい若者達が大量発生してしまったそうで、彼は領主から医学書以外の著作を禁じられてしまったといわれています。


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