11月


9日
野口 英世

1876〜1928

大正時代の医学者

現在の福島県猪苗代町で、落ちぶれた農家の再興を願う気丈な母親と、婿養子に迎えられたが影が薄く、大酒のみで賭博好きの父親のもとに生まれました。

赤ん坊の時、母親が農作業に出ている間に、いろりに落ちて、左手に大やけどをしてしまいました。しかし、小学校の時の成績は、大変優秀で、小学校の小林先生の私財を投げ打ってまでの援助があり高等小学校へ進みました。そして、16歳の時、先生や友達が、少しずつお金を出し合って、左手の手術をすることができました。火傷でくっつきあった指がようやく離された時、医学のすばらしさを感じた彼は、医者になりたいと決意したのです。

高等小学校卒業後、左手を手術した病院、会陽医院の渡部医師に弟子入りした彼は、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」というのが口ぐせで、その言葉通り実行していた。 19歳の時、医師免許を取りに行くために上京し、その別れ際に、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という言葉を残しています。

東京に出た彼は、会津若松の会陽医院で縁を得た高山歯学医院(現在、東京歯学医院)の血脇守之助先生の元で医学を学び、見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得しました。その後、彼は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三朗を所長とする伝染病研究所の助手となっています。

1900年、彼は24歳でアメリカ留学へ旅立ちました。 そして、ロックフェラー医学研究所のメンバーとなりました。ここでも、彼の研究熱心さは猛烈で、他の所員から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていました。また、この土地で妻メアリーと知合い、結婚しています。さらにアメリカからヨーロッパへと、彼は研究の旅をつづけました。伝染病の細菌の発見や、梅毒のスピロヘータの純粋培養に成功するなど、目覚しい業績をあげ、医聖と仰がれるまでになっていました。日本のノグチの名は世界に広まっていったのです。

その後、黄熱病の研究のため、エクアドルのグアヤキルに出張。その後も黄熱病のさらなる研究のために、南米各地を回りました。 しかし、南米で彼が作った薬では、アフリカの黄熱病は直らない、という連絡を受け、アフリカのアクラへ出張。しかし、そこで彼は逆に黄熱病にかかり、51歳の偉大な生涯を閉じたのでした。
野口英世は幼名を清作と言いました。彼が北里柴三朗を所長とする伝染病研究所の助手となった頃。「当世書生気質」という医学生を主人公にした小説を彼が読んだところ、その主人公の名前は「野々口精作」といい、名前も短所も非常に彼と似ていたのです。その短所を直す意味も含め、名前を清作から英世へと改名したとも言われています。
医者をめざして上京後、日本初の伝染病研究所に入って北里柴三郎に師事した彼ですが、東大および帝大出でない彼には、日本での出世が望めないことは目に見えていました。そこで、彼の考えた方法は。まず、アメリカに出る。それからドイツに行って学位をとって、帰国するというものでした。そう、決意した彼の元に伝染病研究所を訪れたアメリカの細菌学者フレックスナーの通訳という仕事が回ってきます。これをチャンスに、その縁をたよりにおしかけるようにして渡米したのでした。
実は彼は大酒飲みで金銭感覚ゼロ、借金の達人で、子供のようにわがままで甘え上手であったといわれています。しかし、成功への夢にかられ、そのためには人一倍の努力もまったくいとわなかったとも・・・インターネットでこんなエピソードも見つけました。

金遣いが荒く、それまでにも故郷の恩師や友人に借金をしまくっていた彼ですが、渡米費用の調達方法がふるっていました。たまたま知り合いになったお金持ち夫婦に気に入られ、帰朝後、彼らの姪と結婚するという約束で結納金をもらい、恩師からの借金とあわせて400円を調達したのです。
それだけでも、十分型破りなのですが、船代および当面の生活資金になる筈だったそのお金を、なんと渡米壮行会の日、彼は、ビリヤードですべてすってしまったらしいのです。渡米中止はおろか、あわや詐欺罪までしょいこみかねないところを、友人がなんとか300円、工面してくれて、晴れての船出となったといわれています。
また、ニューヨークで同居した後輩に向かって、細菌学者の一生なんて、賭博師みたいなもんだと、うそぶいたとも伝えられているそうです。

11月


9日
イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ

(1818〜1883)

疲れた人は、しばし路傍の草に腰をおろして、道行く人を眺めるがよい。
人は決してそう遠くへは行くまい。

ロシアの小説家

中部ロシアのオリョール市の富裕な貴族の家に生れました。しかし、父は怠け者で、母は勝気な女地主で、夫婦仲が悪かったため、寂しい少年時代を過ごしたそうです。

幼少の頃から文学に関心を持ち、モスクワとペテルブルグの大学で学んだあとは、ドイツのベルリン大学に留学し、一生のほとんどを外国で暮らしました。

1843年に、作家としての第一歩をかざる長詩「パラーシャ」を発表。その後も、彼は人道主義の立場から、すぐれた自然描写とするどい心理観察で、ロシアの社会問題をえぐった小説を発表しました。1852年にはロシアの農奴を描いた短編集「猟人日記」を発表し、ロシアの自然の美しさと、貧しいけれども心の美しい農民の姿を描くと共に、当時の農奴制を批判しています。

この作品は政府の反感を買い、ゴーゴリの死に際して書いた追悼文「ペテルブルクからの手紙」を口実に、彼は検閲法違反で逮捕され、一ヶ月も投獄された上、2年もの間自分の領地を出ることを禁じられていまいました。

しかし、その後も彼は作品を発表し続け、「ルージン」「アーシャ」「貴族の巣」「その前夜」「初恋」「父と子」「けむり」「処女地」と数々の名作を残しました。

彼は、フランスに長く住み、外国の文学者はもとより、音楽家や美術家たちとも親しく交際し、ロシア文学の紹介に大きな役割を果たしました。さらに、農奴制の廃止に果たした「猟人日記」の役割は、高く評価され、世界的な名声を得た最初のロシア作家といわれています。

1883年9月3日。パリ郊外のブージバルで脊髄癌のため亡くなりました。彼の遺骸がロシアに送り出されるとき、パリ北駅では盛大な儀式が催され、ペテルブルグの葬式は国葬として行われたということです。
日本で「猟人日記」をはじめて紹介したのは、二葉亭四迷でした。
子供は空を飛ぶ鳥である。気が向けば飛んでくるし、気にいらなければ飛んでいってしまう。

情熱家より、冷淡な男のほうが簡単に女に夢中になるものだ。

疲れた人は、しばし路傍の草に腰をおろして、道行く人を眺めるがよい。人は決してそう遠くへは行くまい。

人間には不幸か、貧困か、病気が必要なのである。なぜなら、人間はすぐ高慢になるからである。

乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ。


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