11月


4日
泉 鏡花(いずみきょうか)

(1873〜1939)

明治・大正期の小説家

本名は鏡太郎といい石川県の金沢市に生まれました。父は彫金師、母は能役者の松本金太郎の妹で、芸術的な血筋を父母から受け継いでいます。

11歳の時に母を無くし、創作によって身を立てようと、北陸英和学校を中退後、明治23年に上京します。この頃は彼の生涯でもっとも苦労の多かった時期で、豆腐がらばかりで五日間を過ごしたこともあるといいます。翌年ようやく縁故を頼って強引に尾崎家においてもらうようになった彼は、小石川の大橋乙羽亭に移転する明治28年までそこに住んで作家としての修行に励みました。

牛込横寺町の尾崎紅葉家の玄関番として住みこんだ彼は、紅葉の指導のもとに「冠彌左衞門」を発表し、次作の読売新聞に連載した「義血侠血」(「瀧の白糸」)が好評を得ます。

次いで「夜行巡査」「外科室」を「文芸倶楽部」に掲載、新進作家としての位置を確立します。その後、鋭い問題提起を示す観念的な作風から一転して清新な抒情性をたたえた作品を描き、やがて「高野聖」などの作品で人気作家となり、日本のロマン主義文学の代表者になりました。

その後、自然主義文学運動の影響から、文壇的には不遇な一時期を送りますが、大正中期には名声を取り戻し「日本橋」「薄紅梅」などを発表しました。すばらしい空想と、言葉の豊かな文章は、彼独自のもので、日本語の美しさを最大限に発揮したものと言われています。純愛と悲劇をえがくことを得意とし、その耽美の系譜は、現代文学にも強い影響を与えています。明治以後の小説界における最も誠実なロマン主義者といわれています。昭和14年(1939)65歳で亡くなりました。

生誕百年にあたる昭和48(1973)年に「泉鏡花文学賞」が金沢市によって創設されました。
尾崎紅葉(おざきこうよう)1867〜1903
小説家。本名徳太郎。自然主義以前の明治文壇の大家。硯友社をおこして「我楽多文庫」を創刊。言文一致というスタイルを作り出し、「金色夜叉」をはじめ多くの名作を書いた。紅葉は日本語の不思議な美しさを文章に表し、その文学は弟子の泉鏡花に受け継がれた。鏡花の他に徳田秋声や小栗風葉ら多くの門弟を出した。代表作「二人比丘尼色懺悔」「三人妻」「多情多恨」「金色夜叉」など。
明治32年、文学者仲間(硯友社)の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤ずず)を知り親しくなった鏡花は、幼い頃からの友人吉田賢竜がすずを請け出す金を工面してくれたので、神楽坂二丁目二二番地の借家に彼女と同棲するようになりました。しかし同棲が知れて紅葉に強く叱責され、すずはいったん鏡花のもとを去りましたが、紅葉が没してから正式に妻となっています。このすずが「婦系図(おんなけいず)」のお蔦、「湯島詣』」蝶吉のモデルであり、紅葉に叱責にされた時のショックは「婦系図」の中に大きく生かされているといわれています。

11月


4日
隠元(いんげん)

江戸時代初期の僧

(1592〜1673)

中国(明)の福州に生まれました。家は貧しく、しかも彼が6歳の時に父親は遠国へ行ったまま行方不明になってしまいました。そのため、家はますます貧しくなり勉学につくゆとりも無く、彼は幼い時から田畑を耕して母を助けていました。

その後、成人した彼は父を探しに旅に出ましたが父は見つからず、28才のとき母が亡くなり、その葬儀を行った翌年、黄檗山(おうばくさん)に登り、鑑源禅師の許しを得て出家し、禅の勉学につとめ、苦行を重ね、諸国を歩き、高僧に禅の道をきいて修業を続けました。

その後、鑑源禅師のもとを離れ金粟山の密雲和尚の門を叩き、6年間、血の出るような修行を続けついに悟りを開きました。そして、密雲の師僧である費陰和尚が黄檗山萬福寺住職となると、彼もそれに従い、費穏のもとで臨済宗の正伝を得ます。そして46歳の時費穏のあとをついで萬福寺住職となりました。

1654年、将軍徳川家綱の命を受けた、長崎、興福寺の僧逸然性融(いつねんしょうゆう)のむかえをうけて、来日を決意。63歳にして、弟子20人あまりをともない、興福寺にはいりました。

のちに、江戸にむかい、将軍家綱の尊信をうけ、生涯日本にとどまって念仏禅を布教するようにもとめられて、宇治に黄檗山万福寺をたて日本に黄檗宗を伝えました。それまでは、日本の中国への留学僧が帰国後新たに創建していましたが、中国人としてはじめて、新宗派を日本にはじめて創立したことになります。

彼のもとには、人がひきもきらず押し寄せ、様々な階級の人々が彼の講話を聞き、彼は、質問には丁寧に答え、座禅の教えを広めました。直接隠元禅師の話を聞いた人々は1万人を越えると言われています。
彼は、隠元豆を持ってきたことでも有名ですが、これは、来日する際、日本が飢饉であるとのうわさを聞き、どんな荒地、ちょっとした土地にもさかえるため、保存食として伝えたと言われています。また彼はその他にも、隠元頭巾や隠元豆腐など色々なものを伝えたそうです。
また、彼は書にすぐれ、弟子の木庵、即非とともに「黄檗三筆」とうたわれ、江戸時代における唐様書道のもとを開きました。また、喫茶法として中国式煎茶の(喫茶の)習を伝えたとされ、煎茶道の象徴としての地位を占め、日本の茶道にも大きな影響を与えたということです。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に