11月


2日
ジョゼフ ジャンヌ マリー アントワネット(Joseph・Jeanne・Marie・Antoinette)

(1455−1793)

フランス王妃

オーストリアの名門、ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア女帝と皇帝フランツ・ヨーゼフの6女として生まれました。14歳でルイ15世の孫の王太子ルイに嫁ぎ、やがて15世が亡くなり、夫ルイが即位してルイ16世となり、彼女は王妃となりました。

当時は太陽王と呼ばれたルイ14世が作り上げた王朝文化の余香がまだ残っていた時代で、彼女は優雅な宮廷生活を送っていたのですが、ルイ14世の晩年頃から既に陰りを見せていた国家財政が、ルイ15世時代のポーランド継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争などで更に逼迫していました。ルイ16世はこれをなんと建て直すべく、はじめテュルゴーを財務総監にして国政改革に力を入れ、それが貴族・僧侶の抵抗で1776年辞任に追い込まれると、今度はネッケルを財務長官にして、改革路線を更に推進します。

しかし彼に対しても貴族・僧侶の抵抗は強く1781年、彼も辞任に追い込まれてルイ16世は苦境に立たされます。一方では民衆側はなかなか進まない改革に苛立ち、このネッケル解任は彼らの動きを制御の効かないものへと押し進めていきました。

そんな時「首飾り事件」(1785)が起きました。当時ラ・モット伯爵夫人と自称する女性がストラスブールの大司教に、王妃の名前を出して160万リーブルのダイヤの首飾りを購入させ騙し取るという事件が起こりました。

完璧な詐欺事件でこの事件に関しては、マリー・アントワネットには何の責任も無いわけですが、この事件は国民に大きな衝撃を与えました。「王妃の名前を騙れば、そんな高額の買い物ができるのか?」「国民がこんなに苦しんでいるというのに、王妃はそんな贅沢をしているのか?」と。この事件で彼女の人気は急落してしまいます。

1787年、打つ手がなくなったルイ16世は名士会、三部会を召集し、翌年にはネッケルが国民の声に押されて再任されます。しかし、平民代表と貴族代表の対立は解決できず、平民代表は、テニスコートの誓いで、強硬路線を確認しますが、貴族たちの圧力に押されてルイ16世が愚かにもネッケルを罷免、国民たちの怒りは爆発しました。

1789年、市民たちがバスチーユ監獄の付近に集結しはじめます。急を聞いた貴族の一人はルイ16世に軍隊の派遣を進言しますが聞き入れられず、今度は王妃に王の説得を頼もうとしますが、彼女は彼がノックもせずにいきなり部屋に入ってきたことを「礼儀がなっていない」ととがめ、話を聞こうともしなかったといいます。その貴族はは「船が沈もうとしている時に礼儀を問うのか?」と怒りの捨て台詞を吐いて、その場を去り、後に改革派の中心人物のひとりとなったといいます。

このパリのバスチーユ襲撃に呼応してフランス各地で市民の蜂起が相次ぎ、やっと事態を飲み込めたルイ16世はネッケルを再々任しますが。時すでに遅く、国民議会は「封建的特権の廃止」を宣言、更に有名な「人権宣言」が出され、国王夫妻は女性たちによってヴェルサイユから拉致され、パリのチュイルリー宮に軟禁されます。

翌年には貴族制の廃止が決定され、革命が進行する中、1791年国王夫妻はオーストリアへの亡命を企てひそかにパリを抜け出します。彼らはオーストリアとの国境のすぐ近くヴァレンヌまで逃げたのですが、あと少しの所で発見されパリに連れ戻されてしまいます。

この事件は「国王はフランスを見捨てるつもりだったのか?」と既にほとんど地に落ちていた国王夫妻の人気を消滅させ、まだわずかに残っていた国王支持派を転向させることになります。

その後過激派はチュイルリー宮を襲撃して国王一家をダンブル塔に幽閉、国王の権限を停止させました。共和制が宣言され、国王に対する裁判が始まります。翌年1月19日に国王は死刑と決まり、翌日執行。

更には彼女も10月16日死刑判決が出て、即日執行されました。通常ギロチンというのは、顔を下に向けて置かれ、上から刃が落ちて来るのですが、彼女に関しては国民の憎悪があまりにも激しかったため、わざと上向きに置かれ、刃が落ちてくるのが本人に見えるようにしたと言われます。
革命が勃発してから、アントワネットは、夫を凌ぐ気丈さを見せはじめます。「国王の周りには、男らしい人物は一人も見当たらない。ただひとり、彼の女房を除いては」これは、当時の革命家、ミラボーの言葉です。
アントワネットには、スウェーデンのフェルセン伯という愛人がいたことは知られてます。アントワネットは、夫のルイ16世に、フェルセンを愛していることを打ち明け、ルイはそれを受け入れたそうです。
王妃とフェルセンとの仲を、ルイに密告するものをいたそうですが、ルイは、密告者の卑しさを悲しんだといわれています。なお、フェルセンは、革命勃発の折り、国王一家を助けるために奔走したことも知られています。
10月13日、処刑。ルイ16世のときは幌付きの馬車で処刑場まで連れて行かれたが、アントワネットにはそれも許されず、平民と同じ荷車で連れて行かれた。そのときの様子をダビッドがデッサンで残しています。
刑場で処刑人の足を踏んでしまったアントワネットは、「ごめんあそばせ。わざとやったのではありませんの」と優雅に言ったという。
アントワネットは生涯に4人の子を儲けました。長女マリー・テレ−ズ、7歳の若さで病死したルイ・ジョゼフ、そして彼の夭折後王太子に擁立され、革命期に謎の死を遂げたとされるルイ・シャルル。もう一人の王女ソフィーは、1歳にも満たないうちに死亡しています。アントワネットは概して愛情深い母親だったと言われています。


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