10月


31日
蒋介石(しょうかいせき)

(1887〜1975)

中国の政治化・台湾の国民政府総督

浙江省奉化県でうまれました。1907年に保定軍官学校卒業して、日本の陸軍士官学校に留学しました。その後、革命家・陳其美の下で、辛亥革命に参加し、広東軍政府に参加、孫文の信任を得て、ソ連視察後、黄埔軍官学校校長に就任しました。
孫文の死後、国民革命軍総司令官となり、北伐軍を指揮しついに南京政府を打ち立てました。南京国民政府主席として全権を掌握し、以後、反共政策を採る様になりました。中国共産党に対して武力討伐を5回も行い、共産党を駆逐して、ファッショ的な国内支配を目指していました。

しかし、1936年末、西安事件で共産党に身柄を拘束されると、周恩来の仲介で、国共合作に応じ、以後、国防最高委員会主席・行政院長(首相)として、南京から重慶にしりぞいて抗日戦を指導しました。

戦後、国共合作を放棄し対米従属路線に傾倒。1948年の国民大会で、憲政下初代大総統に就任しましたが、翌年、中国共産党軍との内戦にアメリカの軍事的財政的援助にもかかわらず、国内民衆の支持を失い敗北し、台湾へ亡命しました。以後、国民党総裁・中華民国(台湾)総統として同島に君臨し、その独裁権力を保持し続けて「大陸反攻」を叫び続けましたが、1971年国連で議席を失って以後、国際的にもますます孤立を深めてゆき、1975年に亡くなりました。

第2次世界大戦終了時、彼は、戦勝国・中国の総統として、他の連合国と共に、敗戦国である日本に対する処置を決定する権限を持っていました。

彼は、彼の祖国である中国を、無惨にも踏みにじった日本兵の残虐な行為をつぶさに見ていました。彼自身も何度も生命の危険にあっていました。しかしクリスチャンであった彼は、そのときキリストの「汝の敵を愛せよ」の教え、またそれに基づく、「怨みに報いるに徳をもってせよ」の精神のもと、米国のルーズベルト大統領や英国のチャーチル首相を説き伏せ、敵国・日本に対するまれにみる寛大な処置を実現させたのです。

その寛大な処置とは、
  天文学的数字にのぼる莫大な戦争賠償金を日本に請求する権利を放棄すること
  連合軍が主張する、日本の分割占領の阻止
  中国大陸にいた200余万の日本軍民の帰国をすみやかに実現すること
  天皇制の存否は、日本人の考え方にゆだねる
ということでした。このように彼は、終戦後の日本の処置について、歴史上まれにみる寛大な策を主張し、実現させたのです。
終戦当時、中国大陸には日本軍の将兵130万人、また民間人85万人がいた。総計200万人以上にのぼる彼らは、これからいかに身を処するかということで、途方に暮れ、また、一体どのような仕返しがなされるであろうかと恐怖におびえていた。
しかし蒋介石は、「神は愛なり、汝の敵を愛せよ。日本人に危害を加える者、また物資を奪う者は死刑に処す」という放送を流し、彼らを捕虜としたり、虐待したりすることなく、すぐさま日本に帰国させるよう手配をとった。この返還輸送のために、全中国にある列車や船舶の、80%が動員されたという。そして10ヶ月余りという空前の短期間に、大陸にいたすべての日本軍民の祖国復帰が実現したのである。
蒋介石 ――終戦のメッセージ――

「全中国の軍官民(ぐんかんみん)諸君、ならびに全世界の平和愛好の諸士、われらの対日戦は本日ここに勝利を得た。「正義は必ず独裁に勝つ」との真理はついに現実となった。これはまた、中国革命の歴史的使命の成功を、物語ったものである。わが中国が、暗黒と絶望のさなかに奮闘すること八年、堅持してきた必勝の信念は、本日ついにその実現をみた。

現在目前に展開しているこの平和に対し、われらは開戦以来、忠勇犠牲となった軍民諸鮮烈(しょせんれつ)、ならびに正義と平和のため戦った友邦に、深く感謝を捧げよう。とくに、国父・孫文が艱難辛苦(かんなんしんく)、われらを革命の正確な路線に導き、今日の勝利をかち得たことに対し、感謝すべきである。

また世界のキリスト教徒も、あい共に、公平仁愛なる神に対し、感謝の誠を捧ぐべきである。わが国の同胞が開戦以来八年、その間に受けた苦痛と犠牲は年ごとに増したが、必勝の信念もまた日増しに強まった。ことに被占領地区の同胞は、限りない虐待と奴隷的屈辱をなめつくしたが、今日すべて解放され、再び青天白日にまみえることができた。

ここ数日来、各地に沸き上がる軍民歓呼の声と、あふれる安堵の表情は、じつに被占領地区の同胞が解放されたからにほかならない。

現在われわれの抗戦は、ついに勝利を得たが、まだ最終的勝利ではない。この戦勝の持つ意義は、単に世界の正義の力が勝を制したことだけにとどまらず、世界の人類もわが同胞と同様、今次の戦争が世界文明国家参加の最後の戦争となることを、切望しているものと信じる。もし今次の戦争が、人類史上最後の戦争となるならば、たとえ形容不能の残虐と屈辱を受けたとはいえ、決してその賠償や戦果は問うまい。

わが中国人は、最も暗黒な時代でも、なお民族を一貫する忠勇仁愛、堅忍不抜(けんにんふばつ)の偉大な伝統精神を堅持してきた。これは、正義と人道とのために注いだすべての犠牲は、必ずや相応の報酬が得られると、深く信じてきたからである。

今次の戦争から、わが中国が得た最大の報酬は、連合国との間に生じた相互尊重の信念である。この連合こそ、青年の熱血と肉弾によって築かれた、反侵略巨大な堤防であった。そしてこれに加盟したすべての者は、ただ今次だけではなく、「人類尊厳」の共通理想実現のために永遠に団結した、同胞の友である。これは連合国戦勝の最重点基盤であり、たとえ敵がいかなる分裂離問の陰謀を挑発しても、絶対に破壊されないのである。

今後は洋の東西を分かたず、人種の如何を問わず、全人類は日をおって加速度的に密接に結合し、ついには一家族のようになるものと、信ずるものである。今次の戦争は、人類の相互理解、相互尊敬のの精神を高め、相互信頼の関係を樹立した。さらに世界大戦と世界平和は、不可分の関係にあることも立証した。これにより将来は、戦争の勃発が、一層不可能になった。

ここまで述べてきた余(私)は、「己(おのれ)に対するごとく人にもせよ」「汝の敵を愛せよ」と命じられたキリストの教訓を想いだし、まことに感無量である。わが中国の同胞よ、「既往(過去のこと)をとがめず、徳をもって怨みに報いる」ことこそ、中国文化の最も貴重な伝統精神であると、肝に命じて欲しい。

われらは終日一貫、ただ侵略をこととする日本軍閥のみを敵とし、日本人は敵としない旨を声明してきた。今日、敵軍はすでに連合国に打倒されたので、一切の降伏条項を忠実に遂行するよう、もちろん厳重に監督すべきである。しかし、決して報復したり、さらに敵国の罪のない人民に対して、侮辱を加えてはならない。われらはただ日本人民が、軍閥に駆使されてきたことに同情を寄せ、錯誤と罪悪から抜け出ることを望むのである。

もし暴行をもって敵の過去の暴行に応え、奴隷的侮辱を持って誤れる優越感に報いるなら、怨みはさらに怨みを呼び、永遠にとどまる所がない。これは決してわが正義の師の目的ではなく、わが中国の一人一人が、今日とくに留意するべきところである。

全国の同胞よ、現在われらは、中国を侵略した敵の帝国主義を打ち破ったが、まだ真の勝利の目的には到達せず、侵略の野心と武力は、徹底的に消滅させなければならない。われわれはさらに、勝利の代償が、決して傲慢や怠惰でないと悟るべきである。戦争が確実に終了した後の平和な国土には、今後、戦時同様の苦痛と、戦時以上に努力し改造建設すべき、困難きわまる任務が山積している。

ある次期には戦時よりもさらに厳しい難問が、随時随所にわが頭上にふりかかると、覚悟すべきである。ここで余は、まず最も困難な任務を申し渡したい。それは軍閥から誤った指導を受けてきた日本人民に対し、自己の犯した錯誤と失敗とを、いかにして納得させ、かつ喜んでわが三民主義(民族・民権・民主の三つをいい、自由・平等・博愛に相当する)を受け入れさせるかである。

そして公平主義の競争が、かれらの武力や掠奪や独裁恐怖の競争より、いかに真理と人道の要請にかなっているかを認めさせることで、これこそ、わが連合国に託された今後の最も困難な任務である。

世界永遠の平和は、人類の自由平等の民主精神と、博愛に基づく相互協力の基礎の上に築かれるものと確信する。それゆえわれらは、民主と協力の大道を邁進し、もって世界永遠の平和を、協力し擁護してゆかなければならない。同盟国の諸士、ならびに全同胞よ、武力によって勝ち得た平和は、必ずしも恒久平和の完成ではない。

日本人が理性の戦場においても、われらに教化され、もって徹底的に反省改心するよう導かれ、われらと同じく世界平和愛好者になった暁にのみ、今次世界大戦最終目標、すなわち人類希求の平和が初めて達成される、と信じるよう切望する次第である」

(長谷川太郎氏訳)

10月


31日
マリー・ローランサン(Marie・Laurencin)

(1885〜1956)

「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」

フランスの画家

パリのシャブロール街で私生児として生まれました。しかし彼女の事実上の父は代議士で、経済的な不自由はありませんでした。彼女は母と2人だけの少女期を過ごし、学生時代にデッサンを習い始め、19歳で磁器絵付けの講習を受け、その後、アカデミー・アンベールで学び、そこでジョルジュ・ブラックと出会い、モンマルトルの丘のバトー・ラヴォワール(洗濯船)アトリエに通うようになります。

ここは当時の前衛画家たちの溜り場で、彼女はここでブラックやピカソなどと知り合い、キュービスムの影響を受けるようになってゆきます。そして、キュービズムの理論的な指導者であったアポリネールと恋愛関係になってゆくのでした。この恋は6年間続きましたが、彼女は「洗濯船」のメンバーたちが熱心に描いていたキュビズムの絵に違和感を覚えるようになっていきました。

1912年最初の個展を開いて認められ人気作家となり、その後、次第にキュービスムから脱し、女性らしい豊かな感受性と独特の柔らかい形態の絵を描くようになっていきました。

1914年にドイツ人貴族と結婚しますが、なんと、新婚旅行中に戦争がはじまり。旅先のスペインでそのまま亡命します。しかし、夫はその後アルコール中毒となり、1722年には夫と離婚してパリに戻りました。

パリに戻った彼女の絵は、上流階級の人たちの人気となり、肖像画の注文が相次いだそうです。1923年にはバレエ「牡鹿」の舞台美術も担当しバレエのヒットともに彼女の名声もあがりました。

1956年、パリで亡くなりました。
「鎮静剤」

 マリー・ローランサン(堀口大学訳)

 退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です
 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です
 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です
 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です
 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です
 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です
 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です 
 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
ギョーム・アポリネール (1880〜1918)フランスの詩人。

アポリネールは6年間の恋が終わった時、あの「ミラボー橋のしたをセーヌ川がながれ われ等の恋が流れる」で有名な「ミラボー橋」の詩を作り、別れを悲しみました。彼女は、この別れをきっかけにして画家として一人立ちして行きましたが。アポリネールの方は彼女のことを死ぬまで忘れることができなかったそうです。結局、この別れから5年後、彼はスペイン風邪のため38歳の若さで亡くなってしまいました。

その枕元にはローランサンが描いた名作「アポリネールと友人達」が架けられていたということです。



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